数年前、ミャンマーのディパ・マというてテーラワーダ仏教師の史伝をポーランド語に翻訳しました。
本当に素晴らしい本です。まだアマゾンで買えます。
英語ですが良ければぜひ読んでみて下さい。

ディパ・マ は専業主婦で、お母さんであり、奥さんでした。しかし、二人の子どもに死なれ、主人もなくなったため、健康状態が悪くなり、生きがいが見えなくなってきてしま いました。その時、初めて瞑想に挑戦しました。40歳ぐらいでした。。。 しかし、短時間でディパ・マは修行を重ね、数年後、悟りを開いたそうです。その瞬間、体と精神の全ての病気がいつの間にかなくなりました。 悟りを開いてから、在家でコルカタにある自分の小さい家で仏道を教えていました。(
僕は、何か本を読みたいなら、よくDIPA MAについての本手を伸びる。DIPA MAの説教はシンプルで、ものすごく該博だと思う。斧のように険しい。人間の無光と怠惰をカットすることができる。
彼女の本の「あなたに対して頭を下げていると思わないで」という部分を日本語に翻訳させていただく。
DIPA MAの孫が次のように言います。
「8歳の時、おばあさん(DIPA MA)の提案通りにブッダガヤで出家得度を受けました。 出家したとおもったら、皆が 私に対して頭を下げ始めた。私は「おお!」と思って、自分のことを特別な人間として感じた。しかし、 でも私のおばあさんは私にこんな忠告をした: かれらが、あなたに対して頭を下げていると思わないで。ただ、あなたのお袈裟に対してかれらは頭を下げている。
ポズナンにある円覚院には、しょっちゅう仏教に興味を持っている新しい人がきてくれている。僕は、いつも坐禅の30分前に来るように言う。かれらのバックグラウンドについて少し話したり、坐禅の正しい方も説明してあげたりしたいから。
まるで虹のような色々の性格の人が来る。怖いひともいれば、プライドの高い人もいる。どちらにせよ、仏教と何かご縁があるらしい。
この間、僕の友達がもう一人の友達を連れて来た。その人は(マチェイ)、劇で踊りの先生をやっている。彼に、坐禅は初めてなので、どうやって足を組むと説明してあげた。
昨日スカイプで僕の友達にチャットしながら、
「彼はどう?大丈夫でしたか」と聞いた。
友達は「マチェイがものすごくビックリした」と。
「どうして?」
彼は「あなたは普通の人だから」と。
(笑)
時々、皆に尊敬されているのは、自分自身ではなく、ただ外見のことじゃないか。
医師であれ、お坊さんであれ、ただ私たちのポーズが褒められている。
しかし、本当はその自分じゃなくて。
その時に簡単に傲慢になってしまう。
お寺を訪ねている人は時々どうすればいいか、なんと言えばいいかさっぱりわからなくて、こわい思いをするでしょう。
お寺さんたちはみんな聖人だと思い、もしかして坐禅の間空中浮遊こともできるかもしれないと思ってしまうかもしれない。
しかも、直接に話すことは難しい。
あるチベットの仏教師が「もし、坐禅に組む時、何か特別な感じが起こり、私はスペシャルな人とか、坐禅は宗教的な行為とか、そういう坐禅は本物の修行ではありません。ただ自己中心的な考え」と言いました。
アジェンダ無し。
仏道を歩いている我々が、そういうことをよく観なければいけないと思う。
仏教とは私たちはほかの人よりいい人という宗教では決して無い。言い換えれば、修行は責任だと思う。自分の責任だけでなく、全ての宇宙の責任も。その責任を避けてはいけない。
それではまた!
法純
九拝



いつもながら本当に共感します。
今日もステキな記事をありがとうございます。
永平寺にいる時に尊敬している松永然道老師(当時国際部部長)に
「娑婆に降りたらお坊さんの格好をしていなくたって、みんなからお坊さんだと思ってもらえるような雲水になりたい」という話をしました。
部長さんは
「お袈裟があるからみんな頭をさげるんですよ ハッハッハ・・・」
とおっしゃっていましたが、最近ようやく、なんとなくですがそのことが身体を通してわかってきたような気がします。
現代社会に生きる雲水が歩むべき道、正直まだ先は見えませんが、とにかくご縁を大切にして流れ行くのみかなと感じています。
見目より心ということですね:)