雲水の一番の基本は早寝、早起き、掃除です(これはあくまで基本であって、夜更かし、朝寝坊が必要な時もありますが、そのことについてはまたの機会に)。
これさえやっていれば、他は大抵大丈夫。
今朝はいつもより早く起き、丁寧に洗面をし、丁寧に坐り、丁寧に朝課をしました。
すると、滞っているのものを見過ごせなくなってくるのです。
おかげでその「雲水の基本」の力が落ちてきてるのを実感することができました。
こんな事件がありました。
ある日、アパートの階段が汚れていたのです。
もっと直接にいってしまえば、誰かがゲロをはいていたのです。
狭いアパートですから、誰がどんなことをしてるかはだいたいわかります。犯人はあの日の夜にばか騒ぎをしていたこの部屋の人達だろう、ということをみんな気づいていました。
それから一週間が経ち。
実は今朝までゲロはそのままでした。
誰も掃除しようとしない。
雲水が住んでいるアパートにおいてそれはあってはならないことです。
無論、拙僧も気づいていました。
でもよけて通っていました。不快な想いを抱えながらきれいになるのをまっていました。
これは実は大変禅的でない、滞った行動であったことに今朝気づきました。
今朝まで気づかなかったというのはゲロを見てから今まで、不快な思いにフタをして丁寧に朝を過ごしていなかったのが原因です。
とにかく禅には正解はありませんが、「二心」(futagokoro)を嫌います。
今は今しかないから迷うなってことです。
具体的には永平寺から降りたばかりの星覚和尚ならまずこの二つのどちらかをとったでしょう。
2、何も言わずに黙って掃除。どこを誰が、何で汚していようと目がついた物は誰のためというわけでなく、磨いていく「ホトケの寮長さんモード」
まわりの住人と穏便にやっていきたいし、いやがらせとかされたらやだし、という理由で1の行動はしませんでした。
子供じゃないんだから自分達で当然、自らの過ちはカタをつけるだろうという勝手な希望もありました。
ここで自分が掃除をしてしまったら、おそらく汚した当人は何をしても誰かがなんとかしてくれる、という甘えた誤解をもってしまうという理由で2の行動はしませんでした。
他人のゲロを掃除するという行動に不快感を覚えたのも確かです。
では、星覚さんはどうしたのか。
結局どちらでもなく、ゲロをよけて一週間を過ごしました。
つまり、ここで娑婆に還って随分立つ星覚和尚は最も禅的でない「なにもしない」という行動をとってしまったのです。
「無心」といわれるが故に、よく禅は「なにもしない」ことと勘違いされるのですが、ここでそれが誤解だということがわかってもらえるのではないでしょうか。
声を大にしていいます。禅とは何もしないことではなく、「行動すること」なのです。
つまり禅とは「ACTING」
1か2の行動、どちらもその時そう感じたのだからそれを実行に移せばよかった。
実行に移せばそこから、また生き生きとした感情が生まれ、ダイナミックに世界が展開していきます。滞らず流れていきます。
それでは、その実行を妨げたのはなんだったのか。
それは、怒りを表現したら仕返しされるんじゃなかろうか、自分が行動したら他の人の為にならないんじゃなかろうかという不安と恐怖、「頭の中の」妄想だったのです。
でも例えば09デザインでコーチのこうすけがよく例に挙げる「世界が終わるとしたら・・・」って想像してみましょう。今晩で地球は終わりとして、今この瞬間汚いゲロがあって犯人がわかっていたら?
仕返しだろうがなんだろうが、怒りの感情を伝えていたと思います。
自分できれいに片付けて気持ちのいい最後の日を送っていたと思います。
それをしないで、毎日明日安全に暮らすことを考えて唯日々をおくる。
二心のない行動を「妨げているもの」は何なのか。
それをじっと坐って覚え、ひとつひとつとりのぞいていく。
その過程そのものが禅の、俳優の修行なのです。
考えるよりもまず実行。でも我が身かわいさに妄想してしまう。
今朝は、お鍋一杯に水を汲んで「現場」まで何往復もして、そんなモヤモヤをゲロと一緒に吹き流したのでした。
蛇足ですが、その行動をおこすきっかけとなったのは丁寧な早寝、早起き、坐禅であったことを付け加えておきます。
どうぞよろしゅう
コメントする