雲水喫茶の日替りマスター!!

「ただ何もしない」その後・・・

th_IMG_6074.jpg

>デモに参加して


7月29日に東京で行われた大規模なデモに参加して、多くの伝えたい想いを言葉にできないまま二ヶ月が経過しました。
「ただ、何もしない」ということを皆で一緒にやってみようという試みは残念ながら今のところ爆発的に世界中に広まっている様子はなさそうです!これを表現しきれなかった悔しさは残るけれど、それでもオランダ、ベルリン、東京を始め各地で共感してくれる人達がたしかにいたのは嬉しいことでした。

あれから10回目となる今週10月5日の金曜日にも首相官邸前にたくさんの人々が集まっています。毎週金曜日に「ただ、何もしない」をベルリンの雲堂で試み続けながら、今の日本の状況について想うことを綴ります。


>ベルリンを訪れた福島の人


後日書く、と速報しておきながらずっと書けずにいたデモのこと。
「あるいはこのまま書かなくても」と思っていたのですがそれを許さないご縁がありました。
福島県出身で現在は北海道に移住している中手聖一さんとそのご家族が9月23日にベルリンを訪れたのです。22日にパリの禅道場でイベントを終えた翌日、急いでベルリンに戻り講演会に駆けつけました。会場にはたくさんのドイツ人がいて、その中には日本人の姿もありました。

聖一さんのお話に僕は複雑な想いを抱きました。
できるだけそれを書いてみたいと思います。

1、子供達を守らなければいけない
2、この悲劇を他の誰にも体験してほしくない(全ての原発をとめなければいけない)

「最も伝えたいお願いはこの二点。国境を越えて広がりつつある汚染にどう立ち向かうのかは人類全体で考えなければいけない問題。継続すべき活動で、今、自分に何ができるか、みんなで一緒に考えたい」
このように語る彼。家族、生命、存在を賭けて真剣に問題に向き合っている勇気のある人だなと感じました。

会場には専門家の方々もおられ、現状に関する様々な情報も併せて伝えてくれました。小学校高学年の龍一君はドイツ語で最初の挨拶をこなし、実に立派なスピーチでした。ちょうど彼くらいの頃に父の仕事の関係で転校をすることになり、寂しくていつも泣いていた自分の少年時代の思い出がよぎります。笑顔でベルリナー達と交流し、最後に丁寧に椅子をしまう頼もしい彼の姿に美しい福島の大地を感じました。

質疑応答の時間があったので僕は聖一さんに
・日本の人たちは関心があっても動かない、動けない特殊な状況にあると思うが、それはドイツの人達に理解されていると思うか?その状況について聖一さん自身はどう考えているか?
・このことについて国外に住んでいる日本人、そして日本に関心のある外国人は何ができると考えているか?
という質問をしました。

日本人である聖一さんが日本の事故をドイツで人類全体の問題として話すのであれば、その前提として日本の特殊な状況を説明しなければうまく伝わらないのではないかと感じたからです。

これを読んで下さっているみなさんは今日本が特殊な状況にあると感じますか?

僕はなんとも言えない特殊な状況であると感じています。

今年1年間で6回日本に一時帰国しました。
様々な濃度で蔓延する不安が人々の心にミエナイ壁をつくり、その隔たりがどんどん広がっていく。
容易に言葉にならず、口に出すこともできず、表現できない、共有できない、外に出せない
生まれて初めて経験するなんともいえない「ぬたっとした感覚」を感じています。
実はこの特殊な状況を世界の人々と一緒に見極めることこそ、人類全体が共有する問題の本質に触れるヒントになるのではないかと思うのです。

たしかに「先進諸外国」の心優しい親日家の方々が温かい援助を申し出てくれることは心が震えるほど嬉しい。しかし一方でどこかしっくりこない部分があるのです。


だっておかしいと思いませんか?


例えばこんな島国を想像してみて下さい。

その島国では人々は経済的、物質的に自由で豊かな暮らしをあきらめ、貧しくとも自然と共生する汚染のない生活を選び、営んできました。そこへ自然を汚して大金を稼ぎ贅沢な暮らしをしている隣国の国民が事故を起こし、
「この国には人が住めない、汚染が島国にも広がりそうだ、これは人類の問題だからみんなで一緒に考えよう」
と言ってきたら、その島国に住んでいる人々はどう思うでしょうか?

僕なら「冗談は休み休みおっしゃって下さい」
と言ってしまいそうです。

外国からみると日本は科学技術で大金を稼いできた経済大国です。そんな国が原発を作って事故を起こし、今も大地が、空が、海が汚染され続けています。それなのに暮らしを変えるでもなく、収束宣言まで出した上にまわりの国へ人類全体の問題だと訴える。

日本だから許されているような感がありますが、少し勝手すぎるのではないでしょうか。
もし「隣国」があなたに同じことをしたら?島国のあなたはどう思いますか?

「普通なら」日本が一丸となって原因を徹底的に解明し、根本から生き方を変える、その上で世界中に謝して志を顕すのが筋だと僕は思います。同じ過ちを繰り返して欲しくない人類全体の問題として訴えるのはそれからです。ところがそれを全くやらない(できない)。そのプロセスに向かう意志さえ外国に伝わっていない。

決して聖一さんを責めているわけではありません。やらないのではなく誰もできない。
なぜそれができないか。それは今が「普通の状態」じゃないからです。人類が経験したことのないー

それはその後ドイツの人達から出されたこんな質問からもわかります。
・原発を無しで生きていけるの?お金がなくて生きていけるの?
・福島で何が起こってるのか説明して!恐ろしい!これからどうなるの?
・ドイツだったら100万人規模で暴動が起きる。何故日本では起きないの?
・政府やメディアは何をしているの?
・一体福島ってどこ?
・人の姿が見えない。誰が困ってるの?

「福島は聖一さんの故郷で、一番困っているのは今ここにる本人なのになぁ」と僕はちょっと悲しくなりました。

・日本で反原発をすると抹殺されると聞くけど本当なの?

中にはこんな質問もあって仰天しましたが、後からよく考えると驚く程的外れでもないかもしれません。それ程他の国のことはよくわからないのです。

聖一さんもわからないことはわからないとそれぞれの質問に丁寧に答えていましたが、なんとなくその心が響いてこないもどかしさがありました。僕は自分が抱いていた「ぬたっと感」に似たものを感じ、彼の心の奥の声を真剣に聞いてみたいと思いましたが、たくさんの人がいる会場ではじっくりお話をすることもできず、翌日聖一さんはドイツの他の地域に向かっていきました。きっと想像できない程の想いを抱えていらっしゃるのでしょう。こうやって少しでも話を聞かせて下さったことにただ感謝して旅の無事を祈りました。


>道場で話す


この日のことを道場に来てくれた人達と話しました。
ある人からこんな意見がでました。

「医者に身体を任せられないなら、当然健康の管理は自分でしなければいけない。政府に判断を預けられないなら、自分たちが考えなければいけない。個人が誰に何を預け、何を得てきたか。間違いに気づいたならそれを変えなければいけない。一方子供達は選べない。だから、救うのか犠牲にするのか大人達一人一人が意志を持って決断しなければいけない。弱いものが犠牲になるのも自然の法則だから、そうするならはっきり決断して表明する。子供達を救う覚悟があるなら自分が何を諦める意志があるのか決断して表明しなければいけない」

個人の責任についてこんな厳しい指摘は日本人からはあまり聞きません。欧米の人達は比較的個人の責任を重要視する傾向があるようです(その割にはメルトダウンで激しく海を汚染し続けている責任追及の声が欧米諸国から全く聞こえないのはとても不思議ですが)。中手聖一さんの講演でも、東電や関係者の責任が全く追求されていないことを疑問視する声が上がっていました。

日本人はこのあたりがよくもわるくも曖昧です。僕はこれは日本が「個人」について世界でも稀な「ある感性」を持っているからだと思います。原発を作って管理して動かすのにはあまり向いてないような「ある感性」です。そんな国の国民が原発を作ってしまった。そして、事故を起こしてしまった。ここに個人の責任が伝統的に意識されてきた欧米での出来事との大きな違いがあるのではないでしょうか。原発の問題を本気で人類全体の教訓として考えるのなら、この「ある感性」の領域に踏み込まなければいけないと思います。


>デンマークの暮らし


それからしばらく悩んで一週間程経った昨日、欧州を点々としている日本の友人がFacebookにデンマークを訪れて考えた「幸せな生き方」について書いていました。教育費や医療費がすべて無料というデンマークの社会福祉国家としての徹底ぶりを目の当たりにしてとても驚いたようです。最近は日本でもロールモデルとされることの多い北欧の暮らし。彼女がすごいのはその「幸せな生き方」の影の部分や、気をつけるべき落とし穴はないのかという疑問をもってさらに調査を続けたところです。
実際に色々な人に会って話を聞く中で
・税金や物価が高い
・失業者が増え、財政が圧迫されている
・医療は国営の施設やサービスが多く、向上心が弱いためレベルが高くない。
などの問題点を耳にしたそうです。

そしてあらためて日本を顧みて
『中で生きていると気づきにくいかもしれないけれど、きっと素晴らしい点が山ほどある。「ないもの」を求めて学ぶことと同時に「あるもの」に気づき、大切に活かすこと』
と結んでいました。

この話を読んで、ハッとある考えが浮かびました。


仮にデンマークに幸せな生き方があるとして、全人類がそれを営むことはできるのでしょうか?


みんなができないのならそれは「幸せな生き方」と言えないと僕は思います。
なぜなら一定の割合で幸せでない人が生まれる「幸せな生き方」は必ず争いを生むからです。
争いをなくすにはみんなが幸せにならなければいけない。

しかし100%の人が幸せな生き方など考えられますか?
人類の歴史を鑑みるまでもなく、そんな生き方はありえないと思います。

不幸せの上にしか成立しない幸せな生き方が「本当に幸せな生き方」でないとしたら・・・
いつまでたっても人類が「幸せな生き方」に辿り着くことはありません・・・

ドウドウ巡る思考にうんうん、うなっていたら
それを一気に解決してしまうストーリーが記憶の海の底から急浮上してきました。

小さな頃両親に読んでもらったジャータカ絵本です。

飢えた人間のために
自分を食べて下さいと
火の中に身を投げて
月に昇っていったウサギの話。

アナタの幸せを切望し
ワタシの幸せを手放す幸せ



これこそが「ある感性」を知る鍵ではないかと思いました。



どんな光にも影があるように、幸せをワタシに限定している限り、それは不幸せと表裏一体。
それならば幸せではなくてその主語の方、幸せなワタシと、そうでないアナタを区別する思考そのものを、がらりと変えればよいのです。


アナタの幸せのためにワタシの幸せを手放す幸せ


でもそんなこと本当にできるのでしょうか。

それしかない!・・・でもやっぱりそんなことできっこない!
僕も少し前までそう思っていました。
けれども新しい家族ができた今、はっきりと自信をもって言えます。


人間はアナタの幸せのためにワタシの幸せを手放すことができる


あとはワタシと家族と世界の認識を限りなく今に融かしていけるかどうか。
そんな挑戦ができる時代に僕たちはいるのです。


>ただ、何もしない


首相官邸前の群衆の声、聖一さんのお話、ぬたっと感、デンマークのこと、幸せな生き方。
もうもうと渦巻く想いは筆舌につくし難い、という表現が本当にぴったりです。
最後にまがりなりにもどうしたらいいのかを書いておきたいと思います。

「ただ、何もしない」

やはりこれしかありません。二ヶ月前に試み、なかなかうまくない表現でしたが、今もこれ以上の言葉がでてきません。
難しいことではないんです。ちょこっとだけ廻天してみる。
もうちょっとましな伝え方ができるるよう、さらに精進して参ります。

ここまで大変長い文章を読んで下さってありがとうございます。
「ただ、何もしない」その後。
こんな具合であります。好い週末になりますように・・・



星覚九拝



さて、坐ってこよっかな!

2012/10/06  by

コメントする