社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#30 悪性ストイックと軟体動物

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《小樽手宮線跡。以前は必要とされていたけど今は昔。逆もまた真でしょう。》

みなさんこんにちは。今回で
30回目。
縁あって始めたこの試みも、ようやく自分の年齢に追いつきました。
この節目に、今自分がやっていることを見つめ直してみたいと思います。

ぼくがこのコーナーを通して実現したいとぼんやりと思っていることは、
次のことです。

     社交ダンスという「窓」を通して、
     世の中という広い世界を生きるうえでの「知恵」を発見し、
     それを他の分野で生きる人と共有し、
     新しい考え方や価値観を創り出すこと。

おおげさですが。

そして、そのために具体的にすべきことは、
日々の気付き(違和感や充足感)を言葉にするということ。

そして、その際に気をつけるべきことは、
他の人の言葉を参照するということ。

このように考えています。

さて、では現時点で整理できるに至ったものはと言うと、
それは次のものです。

      いかに「悪性ストイック」にならず、かといって、
      いかに筋や骨の一本もない軟体生物にならないように生きるか、

ということです。

ストイックという言葉があります。
他のものに目を向けないようにして、
ただただ目の前のことに専心するという態度のことでしょうか。
アスリートに対してよく使われる言葉のようです。

ぼくは、この、多くの場合に「美しい」とされる
ストイックな生き方が生む「生きづらさ」から、
自由でいたいと思っています。

何かに向かって一生懸命に取り組むことは、とても大切なことだと思います。
しかし、度が過ぎれば、自分を苦しめるだけの制約になります。
ぼくはそういうのが嫌です。

一生懸命になることを否定しているわけでは、決してありません。
ただ、その使われる方法によっては、
いとも簡単に自分や周りを束縛する、
たちの悪い「一生懸命さ」になってしまいます。

「おれはこんなにがんばっているのに・・・」と言って、
自分とは違ってヌルく見える人達のことを糾弾するような態度をとってしまう。

「お前には向上心が足りない!」と言って、
自分とは違う目的意識の人達に敵対的な態度をとってしまう。

ぼくは、こうなるぐらいなら
最初から何もかもやめてしまえば良いと思っています。

ぼくはこの、「度が過ぎたストイックさ」のことを
「悪性ストイック」と呼ぶようにしています。

演出家の平田オリザさんは、
演劇を志した初学の徒に対して次のように語ります。

      「演劇は、一生をかけるに値する、素晴らしい仕事ですが、
      しかしそれは、身体や精神を病んでまでやるほどのことではない。
      その一歩手前で踏みとどまれるかどうかに、
      君たちの成功の鍵があります。」

               (『演技と演出』講談社現代新書p.202

これは、様々なことに言えることだと思います。
社交ダンスはもちろんそうだし、仕事だって恋愛だってそう。
「身体や精神を病んでまでやるほどのことではない」と思います。

一方、

最近では「がんばらなくても良いよ。したいようにしたら良いよ。」
という表現が世に出回っています。

これは、
戦い疲れた人にとっての救済の辞でもあり、
衝突を好まない人にとっての福音でもあります。

しかし、
ぼくはこの考え方にもどこかうさん臭さを感じます。

言葉の通り、
本当に「がんばらない」ようにして、ゆるゆると生きていれば、
きっと筋も骨もない軟体動物のようになってしまうと思います。

そうなると何が問題かと言うと、
大事なところで何かを守れない。
そう思います。

固定的になる必要はないと思いますが、
「この点では絶対に譲れない」という、
自分という存在を証明することができる最低ラインを設定していなければ、
人は生きていけないと思います。
「今からあなたを殺します。」と言われて、
「良いですよ〜どうぞどうぞ。」と言う人はいないと思います。

人類学の世界に「文化相対主義」という考え方があります。
これは、

「文化に優劣はなく、各々の文化が尊重されてしかるべき尊いものである。」

という考え方です。

西洋文明が優れていてジャングルの奥地に住む人々が劣っている
というのではなく、各々は「違う」だけである、

という考え方です。

これは、
現代の人類学者にとっての基本姿勢のようなものとして認識されています。

しかし、
この考え方を徹底してしまうと、
上の例のように、

    「我々は部外者を殺すことを文化として持っている。
     だからあなたを殺します。」

という主張も容認しなくてはなりません。

そうなった時に、
「そうですか。文化って多様ですよね。どうぞどうぞ。」
と言って身を捧げる人はいないと思います。
どこかで「NO!」と言わなければならない。
そう思います。

「悪性ストイック」と「軟体動物」は、
互いに対極に位置する考え方だと思っています。
極端な態度の2極。

人は生きるうえで、
この両極と上手いぐあいに距離を取りながら生きていると思います。

無意識であれ、
人は状況に応じてこの両極の間を揺れ動いているんだと思います。

しかし、
実際に生きるうえで、
この両者のハイブリッドを採用しているにも関わらず、
いざ言葉にして語ろうとする時に、
どちらかに偏った物言いをしてしまう。
こういうことがかなり多いと思うのです。自分も含めて。

「結局、続けたいの、続けたくないの、どっちなの?!」とか、

「あなたがダンスをしたいって言ったんでしょ?
じゃあ、中途半端な続け方したらダメでしょ!?」とか。

逆に、

「いろいろなものを犠牲にしてまで続けるなんて、
どこかおかしいんじゃないの?」とか、

「何だって良いでしょ。ルールなんていちいちかったるい。
全部なくしてしまえ!」とか。

何か歪みを生む程までにストイックになりたいとは思いませんし、
逆に、全てに対してゆるゆるとした態度をとりたいとも思いません。
どちらかに振り切れたくないと思っています。

結局は程度の問題、バランスの問題だと言ってしまえばその通りなのですが、
もう少し、詳しく言葉にしたいと思います。

それによって、
日々気付いた「知恵」というものが、
実生活の役に立つ形、使える形に変換されるんじゃないかと思っています。

次回以降も、
こういう考えを一つの手がかりにして、
何かを考えていきたいと思っています。

30回ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
今回はこの辺でzzz

2010/11/23

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