社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#29 構築・従属・逸脱

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《池田町ワイン祭り。空の下で触れる牛と十勝ワインは格別です。》

学問の世界に「構築主義」という考え方があります。
世の中にあるものは「つくられたもの」である、と考える立場のことです。

「男らしさ」とか「女らしさ」とか、「ルール」とか「規則」というものは、
時を越えて場所を越えて存在するものではなく、所詮はどこかの誰かが、
何かのきっかけで何かの都合に合わせてつくり上げたもの(構築したもの)、
という考え方です。

例えば、
世の中でよく言われる「男たるものビシッとすべし!」とか
「女たるものおしとやかに。」とかいった、規範のようなものは、
人類が太古の昔から遵守してきた決まりごとではなく、
所詮は誰かが何かの都合に合わせてつくりあげたものである、
という考え方です。

例を挙げると、

●5時起床という戒律も、所詮はつくられたもの。
●結婚も、所詮は人間が社会を安定させるために考え出した、ただの装置。
●「働かざるもの食うべからず」という価値観も、
所詮は資本主義の中で人間を労働に向かわせるための方便である。
●学校に行かなければならないという決まりも、
所詮は特権階級が人間を管理するために用意したロジックである。
●社交ダンスの先生がピチッとした服装をして、
カチッとした髪型をしなければならない、という決まりも、
社交ダンスのイメージを守るため造られたルールに過ぎない。
●聖書に書かれた物語も、所詮はキリスト教を広めたい人が
まことしやかに描いたもの。

「構築主義」の立場に立つと、こういった表現が可能になります。
(こんなことを言うといろんな人に怒られそうですが・・・)

この考え方は、容易に次のような考え方を導きます。
それは、

「つくられたものであるなら、それに従う必然性はない。」

というものです。

「どうせつくられたルールでしょ?だったら、何で従わなくちゃいけないの?」

という態度です。

仮に、神様のような超越的な存在が、
「おい、人間達よ、お前達はこういうルールに従って生きなければならないよ。
理由は、言ってもお前達には分からないから、とにかくこれに従いなさい。」
と、人類が誕生した時に、「普遍的なルール」として人類に課していたとしたら話は別かもしれませんが、「構築主義」の立場では、世の中にあるものは人間によって「つくられたもの」という前提に立ちます。

なので、
この立場に立てば、例えば、
年頃の娘が父親に「女の子らしく行儀よくしろ!」とか言われたとしても、
「女らしくって何?!所詮は、昔の人間がつくった決まりごとでしょ?原始人が女らしさっていう考え方を持ってたの?そんなわけないでしょ。そんなものに従いたくない!」と反論するかもしれません。

そういう意味で、「構築主義」という考え方は、
自分がいま従っているルールに従うモチベーションが、
急速に失われる考え方とも言えるかもしれません。

自分が正しいと思っていたルールが、実はたいした根拠がなく、
たいした真正な理由もないものだとしたら、
今後それに従う意欲は減退していくのは自然な流れのようです。

当然、この考え方だけで世の中のこと全てを語れるわけではありません。
こういう考え方を自分が生きていく上で徹底させたいとも思いません。

しかし、
このように考えることで世の中のことが、
以前と少し違って見えてくることがあります。

少なくとも、ぼくにとっては、
自分の周りにある目に見えないルールのようなものを可視化するための、
有効なツールであると思っています。

無意識に従っているルールを絶対化せず、
「多くの中の一つ」として相対化することができるからです。

ぼくは日頃から、
社交ダンスの世界で「あたりまえ」とされていることが不思議でなりません。

例えば、
社交ダンスの先生に期待される振る舞いかたであったり、
人生設計の立て方であったり、ビジネスの展開の仕方であったり。

なぜ、そのようなルールなのか?
なぜ、そのようなルールに違和感なく従えるのか?
なぜ、どのようにそのようなルールは再生産されているのか?などなど。

あと、ぼくがおもしろいと思うのは、 

所詮は作られたものにすぎない。
「なので、」従わなければならないという必然性はない。
「にもかかわらず、」従ってしまう。

こういったメカニズムについてです。

「こんなルール、所詮はつくられたものでしょ?
だったら、従う必要なんてないよね。」

と言いながらも、知らず知らずのうちに従ってしまっている。
もしくは仕方なく従ってしまう。

そういう現象にとても興味があります。

これは、前回の『さすらいのフットボーラー』で書かれていた
「日本ではシュートを打たない、ということがあたり前になっている、ことへの違和感」
と響き合うものだと思います。

日本では「シュートを打たない」という
(おそらくみんな従いたくないと思っている)暗黙のルールが存在する。
みんなそのルールから抜け出したいと思うのに、なかなかそれができない。
こういう事態が起きてしまう。
本当に、不思議です。

そんなしきたりに、正当な根拠なんてないにもかかわらず、
そしてそれを自覚しているにもかかわらず、抜け出すことができない。
周囲を見渡すとそんなことだらけのような気がします。

はっきり言うと、世の中にある価値観とか決まり事というのは、
ほとんどが何の意味も何の価値もないものだと思っています。
所詮は誰かがつくったもの。
そして、それを自覚している人がけっこう多い。
にもかかわらず、それに粛々と従っている人が多い。ぼくも含めて。
このことが不思議でならないのです。

ちょっと長くなってしまいました。
お付き合いありがとうございます。
今回はこの辺でzzz

2010/11/19

コメント(2)

いつも本当に楽しみに読んでいます。
ありがとうございます!

僕も小さい頃からアマノジャクとよくよばれ、捻くれていました。
海外で生活する等環境の変化が大きかったのでしょう。
みんなが常識として従っていることにいつも違和感を覚えていたものです。

僕は最近実際におかしいな、
と思ったらすぐに身近なことから行動を始めてしまうようにしています。
人生いつ終わってしまうかわからんもんね。

こんなにいっぱいゴミを捨てて地球が持つはずがないのに、
と感じたらゴミを全く出さないことはできませんが、
僕の生活の中ではその一番の原因となっているであろうコンビニでの買い物を一切やめてみる。

ペットボトルで飲み物を飲むのがどう考えても持続可能とは言えない、
と思ったら一切ペットボトルで飲まないのは無理でも、
自分で買うのはやめてみる。

思い切ってやってみたら案外できて、結構楽しかったりもします。
できることから少しずつやっていく、
というのは「不思議」をひとつひとつ解決していくひとつの手段ではないでしょうか。

コメントありがとうございます!

世の中は、「既存の常識からはみ出した人」によって駆動されていくと思っています。

その集団を「外から」眺めることで、その内部にいる人達が無意識に従っているルールが見えてくると思います。
海外から、日本を眺める経験を持っている星太郎くんだったら尚更でしょうね。

基本的にルールというのは、煩わしいものだと思います。
確かにそれに従う道理もあるに違いないのですが、やっぱり煩わしい。
そのなかで、「これだけはどうしても納得いかない!」というものから、積極的にはみ出すことで、人は生きていけるんだと思います。

その点で、法純さんが以前に書いていた「戒律は自由の源」というのは、今後も考え続けたい、とても興味深い考え方だと思っています。

星太郎くんの言う「日常的なはみ出し」も実践していきたいと思います。今後ともよろしくお願いします〜

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