社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#31 ほめるということ

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《ピカピカのダンスフロア。踊りが踊られる社交のための空間です。》

みなさん、こんにちは。

今回のものは、以前、自分のHPで書いたものをベースにしていますが、
少し変えて再登場させていただきました。
「ほめるということはどういうことか?」について考えてみたものです。

さて。
仕事にしろ、勉強にしろ、
良い成績を収めた時にほめてもらえるのは嬉しいことです。

観察してみると、このほめ方には2種類あるようです。

   その人そのものをほめようとする場合。
   その人の属性をほめようとする場合。

前者は、
「よくやったね。よくがんばったね。」と言って、
その人の努力やセンスを指して讃えようとする場合。

後者は、
「良かったね。やっぱり親が先生だと勉強できるんだね。」と言って、
その人の属性から、成果を認めようとする場合。

「その人そのもの」と「その人の属性」を明確に区別することは難しそうですが、
人が人を褒める時は、だいたいこの2つの態度に依存しているような気がします。
現実にはこの2つのハイブリッドだと思いますが、
ほめる上での2つの極として設定したいと思います。

説明のために、仮に、
前者を「そのものほめ」、後者を「属性ほめ」
と呼びたいと思います。

順番が前後しますが、まずは後者から。

【属性ほめ】

ダンスの先生の子どもがダンスをうまく踊っても「先生の子どもだから当たり前」
学校の先生の子どもがテストで良い点をとっても「先生の子どもだから当たり前」

「属性ほめ」とは、現実にこういう表現の形で現れるようです。

これは、個人の達成を、
その人の努力であったりセンスであったりという、
その人の資質(才能)に帰せず、
その人を取り巻く属性に帰する思考方法のことです。

とてもつまらないですね。
いくら頑張っても、血筋だね、とか、遺伝だねとかで評価されるんですから。
なんだか報われていない気が強くするはずです。

現実には、
「親が先生だから勉強できて当然だね。」
といった露骨な形で「ほめる」人は多くないように思いますが、
周囲を見渡せば、やっぱりある。こういう態度は。

このように、
「属性ほめ」は、その人の達成したことを、
その人に内蔵された資質からではなく、
その人が所属する状況から説明しようとする思考方法のことです。

以前、バレエを習っている小学3年生の女の子と話したことがあります。

   「今日ね、うまくできたって先生にほめられたんだ。
    でも、"ダンスの先生の子どもだから当たり前だね"って言われたの。
    まあ良いんだけどね。」と。

自分をほめてくれてるっぽいんだけど、どうもそうじゃない気がする。
素直に"ありがとう!"と応じれない気がする。
彼女の、そんな胸中を察しました。

これに似た思考方法が人類学の世界にもあります。

それは、

     人間の行動やその結果は
    「あらかじめ決められたプログラムの結果であり、
     個人はそのプログラムをなぞっているだけ」

という考え方です。

「自分が次にしようとしていることが既に決まっている。」
「自分が無意識に行っている行動が既にプログラムされている。」

こういうものの考え方のようです。ざっくり言うと。

これは1960年頃から支持されてきた
構造主義」という考え方です。

そして、この考え方は、次のような思考を導きます。

自分がいろいろ考えていることも既に予定されていたものなので、
自分の固有性はどこにあるのかが分からなくなる。
「かけがえのない自分」とかいったものが否定される。

というネガティヴなものです。

この考えを参考にして、「属性ほめ」を説明し直すと、

   「その人の成功は、その人の所属する文化において
    あらかじめ決められていたことである。
    あなたが上手に踊れるのも、あなたの親がダンスの先生だったから。
    あなたが仕事ができるのも、先祖に優秀な人がいたから。
    その人の血を継いでいるから。」

こういう説明になると思います。

こういう世界観では、個人は個性のないただの駒になる。
それをするのは自分でなくても良い。
個人は、文化を継承し、次世代へ受け継いでいくためだけの
ただの「容れ物」になる。

今の時代から考えると、
とてもつまらない、人のやる気をなくさせるような思考方法のようです。

【そのものほめ】

「センスあるよね。何か持ってるよね。」
「がんばったね。あなたにしかできないよね。」

「そのものほめ」の現象形態は、だいたいこんな感じのようです。

これは、
個人の成功を、その人の「努力」や目の付け所といった「センス」であったりという、
その人の資質(才能)の帰結だと説明する思考方法のことです。

その人の属性とか境遇と、
その人の達成したことを切り離して考えようという態度です。
その人がどんな家庭に生まれたとか、どんな先祖がいるとかを一切考慮せず、
「いまここ」にいるその人の着想、工夫、努力、意思を
純粋に評価しようとする態度だとも言えるかもしれません。

さらに言えば、
その人の成功を、
遺伝子からではなく環境から説明しようという試みと言えるでしょうか。

人類学に目を転じると。

この考え方は、

     人間の行動やその結果は
    「その人の自由な意思、能力に由来し、
     "この集団はこういう行動をとる"といった
     一般的な法則からは導き出せない、個別的な創造の結果である。」

という説明になるでしょうか。

これは1980年頃から支持されてきた「ポストモダニズム」という考え方です。

この説明からだと、
成功も失敗も「個人の努力・能力」に帰せられることになります。

「才覚と努力次第で誰でものし上がれるチャンスがある。」
とポジティヴにとらえることもできれば、

「全ての不遇はその人の責任」
というネガティヴな自己責任論に用いられることもあります。

ただ、これもちょっと違う気がする。
全てを「個人」で説明してしまうのは。
何かを達成した時に、
「これは自分一人だけでやり遂げたんだぞ〜!」という人は、
現実にあんまりいないんじゃないでしょうか。

うまくいった時に、個人の才能を讃えてくれるのは確かに嬉しいことですが、
その成果は一人だけで達成されたものではありません。

成功は、
いろんな縁やつながりがあったからこそ得た着想であったり、
誰かの助力があったからこそ進めることができたものであったりと、
自分を取り巻くいろいろな状況の助けを借りて達成されたものが
ほとんどだと思います。

成功したビジネスパーソンは、
口を揃えて「周りの助けがあったから」と言っていることですし。

  「あらかじめ決められたプログラム(構造)」から「自由な個人」へ。

その人の行動や結果(成功・失敗)を説明する方法は、
こういうトレンドをたどってきたようです。

そして、今。

人類学の分野では2000年頃から、
これまでの2つの説明の仕方が両極に振れすぎていた(極端すぎた)
という認識が出始め、
この中間にあるであろう領域から物事を説明していこう
という気運が生まれてきているようです。

ぼくは、こういう境界線上の領域について興味があります。
どっちの極にも行き過ぎていないというか、あいまいというか、そういう領域。

ほめる方法についても、
「属性ほめ」でもなく、「そのものほめ」でもなく、
ちょうど良いほめ方というものを探っていければ。

そうすると、ちょっとだけ人生が楽しくなるかもしれませんね。

またまた長くなってしまいました。
お付き合いありがとうございました。
今回はこの辺でzzz

2010/12/04

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