今日は慶福寺という埼玉県にあるお寺にいってきました。
ネバールから素材を運んだ仏塔が建っているとても素敵なお寺です。
住職の亮樹さんが「真理に気づくための装置ともいえる仕掛けを工夫するのが愉しい」といっていたのが非常に印象的でした。
家に帰ったらリンゴを食べました。果物はやっぱりいいですね。
さてさて、彼岸寺のブログでも書いているけれどもやっぱりこっちでも紹介したいので、永平寺の摂心の様子をこちらにも書いておきます。以下、三日目の様子から〜
どうぞよろしゅう!
星。
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引き続き一週間坐禅しっぱなしの永平寺臘八摂心の報告。
3日目から意識の深いところからフツフツと言葉が湧いて来てメモをとらずにはいれなくなる。すごくスッキリとした考えがわいてくるんだけれどもちょっとそれについて考え出したりするとすぐ意識ではとらえられなくなってくるから、想いは流したままで紙に書いたりして記録するより他にないんだもの。
首の角度と目のツムリ具合にいままでにない微妙な感覚が訪れる。
突然娑婆にいる人にあいたくてしょうがなくなる。
今までに疑問に思っていなかったことに興味や好奇心が湧いてくる。
でもそれをじっと坐ってほっておくのがまたいい。
「ネットですぐしらべない」ってすごくいい。この良さに気づけたのは大きい。
あとは1日におわりがくるのがいい。なにしりお2時半には起きるから9時半にはもう寝る準備が始まる。次の日も坐禅三昧だからなんら理屈や戦略を巡らす必要も無い。
いま、ここに集中する。
胸鎖間接を開き眉間のしわをとる新しい感覚を覚える。
やっぱりスポーツとか激しい運動もたくさんしたいな。
あと雲水として必要なことは現代社会でいかにして禅をいかすかということもさることながら、禅の古典をしっかりと読んで参究し、専門性を磨き確立することだと感じた。
最初はほとんど誰も聞いてくれないかもしれない。理解されないかもしれない。
そんなとき、西堂老師の言葉が心に響く。
「典座教訓を、1人であっても1000人であってもかわらずに、心を込めて法を説くのが大切なんです」
と。
なるほど、適当にやったらだめだなぁ。
毒矢を抜く「「「必死さ」」」が、「真剣さ」が!
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