例えば何気なくわからないことをGoogle先生に聞いてみる(ネットで検索する)・・・
例えば新幹線で東京から大阪の友人の結婚式に出席する・・・
これらをとってみても、大量に電気を使っています。
でも使わない方法も可能です。
例えば去年の夏休み、僕は毎日広尾の図書館に通ってみました。
わからないことがあれば図書館で調べたり、人に聞いたりすれば電気は使いません。
例えば4年前、僕は福井から出雲まで(およそ東京ー大阪間と同じ距離)歩いて帰ってみました。歩いて帰れば電気は使いません。
でもどちらも継続できませんでした。
「効率が悪すぎる」んです。
たまーーーーにやることは可能です。
でも、もはや昔の生活には雲水だって戻れないようです。
電気を「使わない理由」はほとんど見当たりません。
逆に「使う理由」はいくらでもあります。
図書館に通ったり人に聞いたりする時間があれば、その分たくさん他の仕事ができます。
新幹線でお祝いに駆けつければ遠く離れた友人を祝いに行くことができます。
今のひとつひとつの活動を考えると
「原発がなければもう世界がまわらない」
と主張したくなってしまうのも多いに納得できるし今のところその通りだと思います。
でも、「何かおかしい」とみんな思いませんか?
ほんとうにそうなのか?
そこが「直感」の部分です。
どう考えても原発が無いと無理なのに「原発は即刻停止すべきだ」と唱える。
不可解だけれども身体で実践する。
これは考えないことを考える「何も考えないで坐る」ことになんだか似ています。
話はかわりますが、ドイツのメルケル首相が公式に国内の原子炉の早期全廃方針を表明したことが報道されました。
そんなことは現実的ではない、無理に決まっている、という批判がたくさんあると思いますが本当にすごいことです。
禅寺の生活は、そこに飛び込むまでは「いや、そんなの絶対無理!」と思うような厳しいものもありました。今思い出してももう二度と無理だな、と思うこともたくさんあります(笑)。
でも、「仲間達と一丸になって」それに取り組んだときにどういうことが起こるか。
いやでいやで仕方がないような厳しい環境が、命そのものを掘り起こして輝かせてくれるような愉快で思い出深い(その時はあまりそこまで感じてません、とにかく必死です)体験になるのです。
故宮崎奕保禅師は「ザルの話」をよくされていました。
一生懸命悟ろう悟ろうと思うことはザルで水を掬うようなものだ、と。
いくら必死に掬おうとしても水は編み目から抜け出してしまう。
ザルを水で満たすことは不可能です。
でも一つだけ、ザルを水で満たす方法があるんです。
どうすればいいと思いますか?
「ザルを水の中に放り込んでしまえばいい」
ザルも水もひとつになる。
ベルリンをはじめ、ドイツ各地では禅が盛んな理由がなんとなく感じられます。
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