雲水喫茶の日替りマスター!!

ゴールデンウィーク直前の宮城県訪問日記

【注:これはベルリンのことではなく先月に宮城を訪れた時のものです。だいぶ時間がかかりましたがようやくまとめたのでこちらに公開したいと思います】



「目の前で転んだ子供に手をさしのべる」

そんな慈しみの心を人は誰でも自然に持っている。
心が動くときのその繊細な初動を純粋に伝えていくような支援ーーー
東日本大震災に際して僕たちになにかできることがあるのならそういった支援がしたい、
そう思っていたところに友人から直接民宿の紹介があった。「どうぞお越し下さい」というお言葉に甘え、被災地が混み合うゴールデンウィーク前の4月27日に東北を訪れることにした。

多くの人々が指摘しているように「被災地支援」というのはとても難しい。
「被災地」と一言で言っても色々な場所があって、色々な人がいる。日本全体が日々変化する未曾有の局面に決断を迫られている。数時間後には状況が全く変わってしまう現状を考えると、被災地レポートを書くことが誰かの役に立つのかわからなくなってしまうし、とてもすぐには言葉で表現できなかった。

友人には東北に「観光に行く」と言っておいたようにあくまで「訪問」で「被災地支援」ではない。
後述するが、ガソリン代、現地での食費や宿泊費、支援物資などを極力「現地でお世話になる」ようにした。
「その時点では」そうすることが一番の支援につながると考えたからだ。
当初は被災地レポートを書いて復興の一助になればと思っていたが「被災地支援の結果」に創造力を働かせることそれ自体がとても難しいということがわかり、今この時期に「訪問日記」としてようやく文字にすることが精一杯だ。それを前提に以下の日記を読んで頂きたい。

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27日の朝5時に、レンタカーを借りて高速に乗った。
途中福島県を通る時に車の窓を閉めてしまったことを正直に告白しておきたい。
運転を交代しながら6時間ほどかけて仙台市に到着。
ガソリンスタンドがまだ閉まっているところが多い。
道はボコボコだけれども街は外から見た限りは地震前にきた時とそんなにかわらない。
水と食糧を買って仙台市を離れた。

山道を抜けて太平洋側にでると、突然工事現場のような開けたところにでた。
目を疑った。クシャクシャになった車、ナビで道とあるところに道が存在さえしていない。
ディスプレイには郵便局、と書いてあるけれども建物自体が消えている。

IMG_2421.JPG

想像を絶する光景の中迷ったあげくに、旅館「ながしず荘」に到着した。雨が降り出していた。「外での作業が難しくなってきたな」と言いながらおじさんが迎えてくれた。玄関の脇には届いた支援物資が積み上げられている。20畳程のスペースがみんなが集まる共有の場所だ。そこに長机を並べてみんなで飯台をとる。滞在中僕が頂いた食事は少なくとも東京での日頃の食事よりもよほど豪華なものであったが、三度のごはんを食べられるようになったのはごく最近のことらしい。

衣料品の支援物資が届くとみんなで箱を開け、中に入っているものをひとつずつ試着してみる。共有スペースには時折笑い声が響く。

壁には政府や自治体からの通知や探し物、尋ね人等の告知がいっぱいにはられている。朝8時過ぎ頃から夜寝る時間まで自家発電をしているので、今は明かりをつけることもテレビを見ることもできる。

「ながしず荘」は避難所にもなっていた。
共有スペースにはここから500メートル程はなれた高台にある曹洞宗のお寺「清水寺」の住職さんとその奥さんがいた。「少しボケている」と奥さんにいわれる住職さんは僕がお坊さんだということがわかるとうれしそうに話し始めた。奥さんはお寺を案内してくれた。
ここ、南三陸町には避難所がいくつかあって高台にある清水寺もそのうちの一つだったという。しかし本堂まで津波が襲ってきて本尊さんの首のところまで海水に浸かってしまったらしい。
彼女は一瞬で街の何もかもが消えていくのを目の当たりにしていた。水が引いても畳が泥で覆われてしまい、ようやく復旧にとりかかったところだ。案内してくれた後にはしっかりとなんとか全壊を免れた本堂に鍵をかけていた(多くの禅寺がそうであるようにおそらく普段は鍵をかけていない)。信じられないことだが地震が起きた後すぐに不審な人物がやってきて被災地をうろついていたという。死体が二重にも三重にもなって積み上がったところにもポケットを探りに来る人がいたりして、疑心暗鬼になっているという。

「ながしず荘」にかえってお風呂に入れてもらった。男女兼用のお風呂は窓ガラスが全壊していて青いビニールシートで仕切られてはいた。お湯が使えるようになったのはついこないだのことだという。

夕食の後「ながしず荘」のおかみさんに話を聞いた。
「訪問者の人たちの目に震災後のこの状態がどう映ったのか気になる。いまのところものはいっぱいある。食料も支給されるから働かなくても食べることはできる。でもそれになれてしまうと今後やっていけるかとても心配だ」
と胸の内を明かしてくれた。

寝る前に話した50代くらいの男性は
「阪神の時は人ごとだと思っていたけれどもこんな風に実際におこるものなんだね。テレビの出来事だと思っていたけれどまさか自分の身におこるとは」と少しおどけて話してくれた。無理に笑っているようで見ているのがつらかった。各地からよせられている多額の義援金だが、やはり聞いていた通り順調に行き渡ってはいないようだ。「お金はぜんぜんまわらないよ、本部に近いところにしかいかないからね」という彼の言葉が印象的だった。

翌朝は早く起きて海に向かって坐禅をした。その後静かな朝の空気の中「清水寺」にいって本堂の前の軒下で朝課を挙げた。朝ご飯も避難所のみんなで一緒に食べたけれども僕たちは少し離れたテーブルで食べた。
「少なくとも半年はここで暮らす覚悟で一緒に食卓を囲み復興をしよう!というノリでないと厳しいな」
直感的にそう感じた。同行した友人と相談して、滞在期間を大幅に縮めて帰ることにした。
なんだか説明がつかないけれど帰った方がいいような気がしたのだ。宿泊代を払わせてもらって挨拶をして車に乗り込んだ。和尚さんのことが心残りだった。
話し相手が来てたいそう喜んでくれ、夜一緒に一杯やろうといっていたのに。
「わざわざ来てくれることは本当にありがたいけれども天候が悪いこともあって、今のところ何にもしてもらうことがないんです。せめて、他の被災地の様子や、ボランティアセンターなどを見て回ってこの状況を覚えておいてほしい」
そう言われたことを素直に受け止めて南三陸町を去ることにした。

海岸線沿いに北上して気仙沼まで行った。
ゴミ捨て場のようで、そこに何があったか全くわからない、言葉を失う状態の大地が続いたかと思うと、10m違うだけで普通の家並みが続いていたり何事もなかったかのように営業しているコンビニがある。海辺でもほんのわずかな高低の差で被害が天と地程も違うということを実感した。
「全壊した家はまだ保証がおりるけれども、半壊(家が原形をとどめているが、浸水で中はぐちゃぐちゃ)した家は住みようがないのに保証もないからね」
避難所のおじさんの言葉が頭に浮かんできた。

気仙沼に到着し「担当が違う」という理由で何カ所か支援所を渡り歩いた結果、ボランティア登録を受け付けている場所にたどり着いた。知人がやっていボランティア団体や個人での支援登録を済ませ、東北をさることにした。

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支援と言うけれども、本当にそんなことができるのだろうか。
まとまらない想いがますます複雑に絡みあってきた。
今回「支援に行きたい、何ができるか」から始まり、逆に「何をしてもえらえるか」を考えるに至った。そして民宿にお世話になってこちらが御礼を言って帰ってきた。

「何ができたか」は全くわからないが、「してもらったこと」はたくさんある。
ながしず荘の人々は疲れていて忙しい中、僕たちの居心地を心配してくれ、自分たちが愛する(かつてそこにあった)町を案内してくれ、食事をふるまってくれて、お風呂にいれてくれ、寝床を提供してくれ、愉快な話を聞かせてくれ、飲みにさそってくれ、明日の旅路を心配してくれた。

確かに支援物資やお金が届けられるというのはありがたいのかもしれない。
まずは命がないと始まらないし「無条件で提供する」ことはある段階ではとても効果的だ。
しかし本当にそれが継続できるのだろうか。転んだ子供を助け起こすような自然な感情の循環が生まれているだろうか。僕が出会った人々は「感謝疲れ」をしているように感じた。

特筆しておかなくてはいけないのはここだと思う。
禅僧は、時に托鉢をする。食糧やお金を施してもらう。本当に有り難い。でも決して「ありがとう」とはいわない。それは与えるという行為自体がその人自身にとっての徳であり幸せであると信じる伝統の信念によるもので、いわゆるgive and takeとは根本から違うからだ。
托鉢をしていると貨幣経済の中で育った僕などは「ありがとう」という言葉がのどまででてくる。しかしそれをグッと抑えて「根源的な幸せの循環」を思い描く。

与えることは損で、与えられることが得なのか?

「モノではない、想念の循環」に着目すると被災地支援の問題が見えてくる。
人間は生きているだけで他者に迷惑をかけずにはいられない。
食事をすること、排泄すること、生活の様々な局面で他己(人だけではない自分以外のもの)のおかげでようやく自己が成り立っている。そう考えると「ある段階から」幸せの条件に変化が生まれることに気づかされた。
「自我を満たす」のではなく「無条件に他己に与える」ことにこそ根源的な幸せを感じるという人間の本能は納得がいくし必然的だ。

子供を助けて、見返りを求める人がいるだろうか。
あげたらあげっぱなし、もらったらもらいっぱなし。
そんな「執着のないおせっかいの循環」をどうやってつくっていくか。本当の意味で満たされる喜びや幸せを感じることのできるライフスタイルはどういったものなのか。それを「一人一人が真剣に考えて、待ったなしで実践していく」

これこそが被災地復興だけでなく、日本を、世界をよい方向に導く力になる。
自分の今までの人生に感謝して、これから出逢う全てに感謝していこう。


長い訪問日記をここまで読んでくれたことに感謝します。
ベルリンにて、相変わらずたくさんの人のおかげで毎日暮らしながら。

どうぞよろしゅう

星覚九拝



追。

複雑さを抱えながらの現地入りに賛同してくれ多額の義援金を提供してくれた二人の友人、堀之内礼二郎君と芹沢茉澄君(www.seriorganics.com)に、この場を借りて心から御礼申し上げます。彼らが自らの舞台公演とワークショップの売り上げ全てを寄付してくれたおかげで今回の訪問が実現しました。二人の活動はどちらも被災地の為にと銘打ったプロジェクトではありませんでした。それにも関わらず今回快く御協力頂いたことに深く感謝しております。義援金は全額、交通費、支援物資とお世話になった南三陸町の方々への御礼に充てさせて頂きました。本当にありがとうございました。

2011/05/23  by

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