雲水喫茶の日替りマスター!!

震災支援と日々の想像、工夫、精進

3月11日の大震災の後、直接被災地に行くにあたって僕の中に大きな疑問がありました。それは「災害時の復興支援、なんとか力になりたいけれどもどのような形でやればよいのか」という問いでした。

物資を送る、募金をする、普通通りに仕事に精を出す、などなど色々な意見があると思います。

しかしボランティアに行ったらどうなるか、募金をしたお金がどうなるか、普段通りに仕事をしたらどうなるか、本当に深く考えたことはありますか?

恥ずかしながら僕はありませんでした。

今回初めてこれらについて真剣に考える機会を頂きました。

支援された食品が食べきれず腐っているのを見たり、お金が必要なところに全く行き渡っていないという現状を聞いたりしているうちに、改めて一人一人が「自らの一挙手一投足」を真剣に考えなくてはいけないと思いました。

雲水が食事をする時に唱える五観の偈という句があります。
その一番最初の句に
「一つには功の多少を計り、かの来処を量る」
とあります。

自分のしてきた行為が今頂こうとしている命に見合うものかどうか、目の前にある命がどこから誰の手を経てどのように運ばれてきたか、できる限り想いを馳せなさいという教えです。

溢れて流れの止まった水は淀んでしまいます。
余った食品はそれ自体でその役割を全うできない負のエネルギーがありますし、それを捨てるという行為はその人が意識していなくても、深層意識に罪悪感を残します。
お金も同じです。自分の手を離れたお金がどのように使われるかはそれを次に受け取った人しか決められないのです。
「使用用途が明確にわかっている場合」を除いて、募金や物資は滞らせないように「顔の見える縁のある人に」するべきだというのが僕の考えです。転んだ子供を急いで助け起こすような自然さで力になりたい。

勿論募金をすることを否定するわけではありませんし、物資を送らない方がいいといっているわけでもありません。
「転んだ子供を急いで助け起こすような」とっさの考えない判断は重要です。脚下照顧や、助け起こさずに見守る、などという厳しくもあたたかい選択なども含め直感です。

緊急時にはそれで救われる命もたくさんあるし、大きな変化のきっかけにもなります。ただその行方によくよく想いを馳せ「さらに効果的な」支援方法がないか「常に想像力をはたらかせ工夫し続ける」ことを忘れてはいけません。

被災地の方々がきっと一番悩み、苦しんで、それでも希望を見いだして明るく強く一生懸命日々精進しています。少なくとも僕の目にはそう写りました。その気持ちをとにかくとにかく大切に、どうやったら全力で応援していくことができるか。そのために自分自身がどう"Act"していかなければいけないのか、深く考え実践したいです。

自分中心の支援だとどうしても我欲と執着がでてしまいます。「執着のないおせっかい」で世の中を変えていくにはとにかく想像力と工夫と実践の継続です。

これは災害支援時だけの話ではありません。

例えば自分が何気なく買っているお店の商品や、自分が何気なくもらっているモノやお金について深く深く、想像力を働かせてみました。

・どのような過程を経てそれはそこにあるのでしょうか?
・何のために何を犠牲にしてそれはされているのでしょうか?
・どのような人の努力や善意がそこに込められているのでしょうか?

思考停止状態での行動をやめてみました。

・自分の労働によって犠牲になっているものに想像力を働かせたら働けなくなり、別の働きかたが見えてきました。
・被災地で頂いた食品に込められている想いに想像力を働かせて食べたら、一口一口が言葉にできない感謝になりました。
・あるお店で使っている電気や食品について想像力を働かせたらもうそこでお金を使えなくなり、他のお店を応援したくなりました。


他人の助けなしに生きていける人間もいませんし、何者も犠牲にせずに生きていける人間もいません。善いと思ってやっていることが未来に負の遺産を残していることもあります。
それ自体の善し悪しで量りきれるものでないが故に、「先人の智慧を学びながら」想像と工夫を続けていくことが本当に肝要です。

雲水喫茶が今までの行動を振り返り、視野を大きく広げ、さらにさらに生き生きとした人生を送るきっかけになればと、また世界中の困難を抱えている方々に慈悲の心が行き渡り、本当に豊かな生き方を多くの人が共有できるようになることを心から願っています。

星。

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2011/05/27  by

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