雲水喫茶の日替りマスター!!

ごめんねとありがとう

「感謝」と「謝る」
全然違う意味なのに同じ漢字が使われている事を疑問に思った事はありませんか?「謝る」とはどういうことでしょうか?素直に謝ることは本当に難しいものです。


勿論感謝をすることも簡単なことではありません。
僕もずいぶん自分勝手な人間ですから

「ありがとうを一日100回言う」

なんてことを実際にやってみたりしながら、いつも感謝を忘れないように努力しています。


しかしさらに難しく、これから挑戦していきたいのは「ごめんね」の方なのです。それに気づかせてくれたのが、昨日鳥取県米子市で開催された「がれき問題を考える会」です。


今年3月に僕の故郷、鳥取県米子市は全国に先駆けて「がれきの受け入れ」を表明しました。これをうけて関東から米子に母子疎開していた友人らが俳優の山本太郎さんを招いて開催に至ったのがこの「考える会」です。


イベントなど携わった事もない友人がイチから企画、運営したにも関わらず、おかげさまで、本当におかげさまで、会場に入りきらない程多くの方々に来て頂くことができました。島根、岡山など近隣の県は勿論、愛知からヒッチハイクをしてわざわざ来てくれた若者もいました。まずそのことに「ありがとう」と言いたいです。


壇上でお話して下さった、山本太郎さん、青木泰さん、雨宮美菜子さんのそれぞれのアツい志とお人柄にも「ありがとう」です。特に普通の主婦でありながら実名で活動されている雨宮さんの懸命な姿を見ていると勇気が湧いてきました。また普段忘れてしまいがちですが太郎さんや泰さん「がれきを進める政治家」も一人一人が実は同じ人間なのだということを心にとめておきたいです。



「メディアを通じて知ること」と「人を通じて感じること」は水たまりと太平洋くらいスケールが違うことをこの会に参加してたくさん、たくさん考えさせられました。(イベントの文字起こしと諸感は膨大で書ききれないので別の記事に書きます。興味のある方はこちらを読んで下さいhttp://bit.ly/JwM2hH 







お金が中心の世界で次々とでたらめな決定をして僕たちを噴飯させてくれる政府。
「無茶苦茶」としか言いようのない原発産業。



なぜなのでしょうか?
どうやったら変わっていけるのでしょうか?


今、僕の中にある答えは「謝ること」です。


原発はやめるべき、がれき拡散はやめるべきという大前提はもう反論のしようがないように思えます。異論のある方と是非ともお話してみたいのですが、原発をやりたい、がれきを拡散してほしいとオテントサマの下で胸をはって言う人を少なくとも僕は知りません。


このような状況で一番考えたいのは「ごめんね」という機会をつくることです。
実はこれが一番難しい。「正しいこと」を主張するよりも難しい。



永平寺では新入りの和尚の一番の仕事は「謝ること」です。どんなに理不尽なことでも先輩がいうことは必ず正しい。「カラスが白だ」と言われたら、たとえ目の前をカラスがヨチヨチ歩いていたとしても

「ハイ!カラスは白であります!」

という世界なのです。



それこそ無茶苦茶だ、と思う人がほとんどだと思います。僕も最初はそう思っていました。競争ばかりで「謝ること」を学ぶ機会はほとんどなく「自分が不利になるから容易に謝ってはいけない」とまで教えられていたのです。


なぜ明らかに相手が悪いのに謝らなければならないのか?自分は悪くないのに・・・娑婆の理屈ばかりが頭に浮かんでいることはすぐに見透かされます。ただ大声で心から「謝る」という行為を繰り返してきました。


数年修行して自分が「謝られる」立場になった時、ようやくその「仕組み」がわかりました。叱る側も理屈抜きで「自分を捨てて叱らなければいけない」という前提があったのです。そして先輩がうまく謝らせないと、自分自身も苦しくなってくる。引っ込みがつかなくなった後輩は暴走してくる。



「正しい」理由は必ず「双方に」あります。けれども、その応酬は結局パワーゲームに陥ります。理屈で武装するのに使う人工的で無駄なエネルギーを禅は好みません。
そこに相手を想う気持ちがあれば「謝る」「謝られる」はすぐに過去のものとなり次の瞬間からどちらが正しいかはどうでもよくなり、お互いが自分の改善点を探し出し、よりよい未来へ「共に」進んでいけるのです。誰もがあやまちを犯すことを互いに受け入れ謝って、みんなで協力して未来へ向かう勇気を持てる自然の摂理です。



勿論いろいろな考えをもった人がいる中でこのシステムがまわるのには条件があります。永平寺ではみな「仏道修行」「互いの敬意」そして「寝食をともにする家族」という共通認識があるからです。

日本は昔からこういったことを大切にしてきた国でしたが、現状はどうかと言われると少し自信がありません。
いや、少しじゃないか・・・まず無理でしょう、残念ですが・・・
だからこそ、現状を変えていくのに仏教の考え方は多いに参考になりそうです。



仏道では謝ることを懺悔(さんげ)といい、毎朝懺悔文(さんげもん)を唱えて自分自身を顧みます。「良い、悪い」という価値判断は人間中心の実に小さな基準で(それはそれで大切ですが)そこを議論している間は自分でも驚く程視野が狭くなり、問題は決して解決しません。


がれき問題に関しては、普通に考えればもう答えは明らかだとしか思えません。


なぜ、それでも、でたらめなことをやろうとしてしまうのでしょうか?
なぜ、素直に謝れないのでしょうか?

・・・でも考えてみて下さい今の状況。謝れますか?


僕だったら確実に謝れません。
ひっそり姿をかくして自分の生活は確保して・・・とやってしまう自信があります。権力とお金にめがくらみ(よく言えば家族を守るため)、原発を再稼働してしまい、がれきを拡散してしまうと思います。


一度やってしまったらあなたなら謝れますか?


推進してきた、拡散してきた、利権をむさぼった。


それは悪意があってやったわけではなかったのかもしれません。
でも、もうひっこみがつきません



実は1円と1億円ほどの違いがあったとしても、それらと同じ心の働きが少なからず自分自身にはありました。心の中の一番醜い部分、認めたくない部分。

そこを見つめていくことはなかなか独りではできません。それこそ賛成、反対の枠をとっぱらって「みんなで」協力するべきことであり、問題解決への本当の糸口なのではないでしょうか?


僕は政治に声をあげるべきでない、といっているわけではありません。むしろこの現状にもっと憤るべきだと思いますし、正しいことを主張し、間違っていることに疑問の声を挙げ、活動をしていくことは大変重要なことです。こういった市民活動がなければそういったことを考えるきっかけもありません。それがなければ原発事故の後、既に日本は亡くなっていたのではないかと本気で思います。


皆が政治に興味を持ち、自ら考え、行動していくこと。これからはそれに「加えて」(並行して)誰もが自分自身を本気で見つめ、互いに叱り、赦し、謝り、感謝することに挑戦していけば、さらによい方向に僕たちは向かっていけるのではないでしょうか。



「ただ依り来る時に触れ、物に随つて心器を調ふる事難きなり」



道元禅師は著書「正法眼蔵随聞記」で命を捨てるよりも難しいことがあると言っています。


それは難しいけれども、反対派も賛成派も興味ない派も、みんなが、みんなで、できること。多くの人が気づき、一人一人が実践し始めています。やってみようではありませんか。


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太郎さん、泰さん、美菜子さんはじめ、イベントに来てくれたたくさんの人達、インターネットでシェアしてくれた人達、真剣にこの問題について考えてくれている全ての人達に心から感謝します。眠さに負けて報告が遅くなった事を素直に「謝り」ながら・・・


ごめんね、ありがとう。


星。



【参考資料】
正法眼蔵随聞記(ちくま学芸文庫 水野弥穂子訳)
2-12 人は思ひ切つて命をも捨て

【原文】

示に云く

人思ひ切つて命をも捨て、身肉手足をも斬る事は中々せらるるなり。
然れば世間の事を思ひ、名利執心のためにも、是のごとく思ふなり。
ただ依り来る時に触れ、物に随つて心器を調ふる事難きなり。

学者、命を捨つると思うて、暫く推し静めて、云ふべき事をも修すべき事をも、
道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいひもし、行じもすべきなり


【現代語訳】
教えて言われた。

人は思い切って命をも捨て、身体や手足を切ることは威勢がいいからかえってできるものである。
同じように世間の事を考え、名誉や利益に執着して自分の思い込んだことのために命をすてる気になるのである。
ただやってくる瞬間瞬間を感じて、目の前の出来事をに寄り添って、心を調える事こそ難しいのである。


仏道を学ぶものは、命を捨てる気になって、しばらく心を落ち着かせて、言うべき事でも、やるべきことでも、道理にかなっているか、かなっていないか、よくよく思いめぐらして、道理にかなっていれば言い、行うべきである。



2012/05/10  by

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