雲水喫茶の日替りマスター!!

限られた一生でやるべきこと

原発の再稼働を巡るニュースはベルリンまで届いています。国家政府の想いとそれを構成するはずの国民の想いの乖離に「もうどうしていいかわけわからん」というのが正直な感覚です。


そこで今日は速記の達人であったという永平寺二世孤雲懐奘禅師が、道元禅師の教えを聞くに随って書きとめたという「正法眼蔵随聞記」の一節を読んでみたいと思います。



古人云く「聞くべし、見るべし」と。また云く「経ずんば見るべし、見ずんば聞くべし」と。いふこころは、聞かんよりは見るべし。見んよりは経べし。いまだ経ずんば見るべし。いまだ見ずんば聞くべしとなり。ちくま学芸文庫・正法眼蔵随聞記1−5/水野弥穂子訳)



「経験していないならばせめて目で見て、目で見ていないならせめて耳で聞く。そして耳で聞いたものは実際に見て、実際に見たものは経験しなさい」
つまり耳で聞き目で見ることは常に「経験が大前提」だと強調しています。



現在拙僧の手元にはインターネットにつなげる機械が3台もあり膨大な情報を見聞することができますが、それらを「経験」できる躰は未だにひとつだけ。迷いは増すばかりで本当に苦しい。

しかしながら単純に「見聞を減らす」解決策はどうも拙速。処理しきれない情報と必ずどこかでつながっている「経験する躰」の方をブレークスルーできないものでしょうか。

道元禅師は「執着を捨て、作法にしたがって姿勢を改めれば、心も随って転ずる」と言っています。
「姿勢」を改めれば心が「随って」転ずる、です。



姿勢。随って転ずる心。



ん?逆になってない?

たくさんの情報に触れることを許された僕達の世代が、一生が限られたこの躰で本当に「経べし」ものは何なのでしょうか?「聞くこと、見ること」と「経ること」をつなげるにはどうしたらいいのでしょうか?

時を越えて響く禅師の言葉に大きなヒントがありそうです。
今週も好い日々になりますように・・・

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2012/06/03  by

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