雲水喫茶の日替りマスター!!

原発は悪くない(5)

続いて「原発そのものは悪くない」というのはベルリンに住んでいる日本人の友人です(前回の記事)。彼の考えは

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
核分裂の反応自体は、自然の法則に従っている。

原子力自体は善でも悪でもない。いつも問題なのはそれを利用している人達の心だ。

その裏に潜む問題にこそ、みんなで目を向けなければいけない。
原発で欲を満たしているのは誰か、お金はどのように回っているのか、

"The system behind it"
(会話は英語だったのでここだけそのまま彼の言葉、他の日本語は拙訳です)

を明らかにしない限りは、何度でも同じことが起こる。

原子力そのものは悪くない。
それに例え反対しきって原発を全て止めたとしても

"The system behind it"

は必ず原子力に変わる新しいなにかをすぐにみつけて、同じことを続ける。
それは太陽光発電かもしれないし、地熱発電や自然エネルギーかもしれない。
問題は全く解決されず形を変えて繰り返される。

原子力に反対する事は、わかりやすいが、残念な事にそこでほとんどの人が考える事をやめてしまう。

デモは誰に何を叫んでいるのか、一人一人が

 "The system behind it" 

を考え、気づかなくてはいけない。
誰が被害者で誰が加害者か、それはいつも巡っている
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

といったものでした。これはみんなで真剣に考えてみたい問いかけです。

原発自体が悪ではないとしたら、自然を壊滅させ、多くの人の故郷を奪い、生命を危険にさらし続けている

"the system behind it"

とは何なのでしょうか?




ちょうどみんなで坐禅をして正法眼蔵随聞記を読んで感想を共有していたところだったので、道元さんの考え方についても話が及びました。

三章六節の一期の命分についての話です。これは

「それぞれが一生の間に必要な衣食は生まれつき備わっているので、余分に手に入れようとして走り回ってはいけない、命をささえるだけのものは、天然自然にそなわっていて手に入れようとしたところで出てくるものでもなく、手に入れようとしないとやってこないというものでもないので、仏法を学ぶものは他の事に心をとめないでひたすら道を学ぶべきだ」というものです。

みなさんはどう思いますか。

人が手に入れる衣食は生まれつきの運命があるのでしょうか?

「日本人の彼」はこの話を読んで、運命があるかどうかはわからないが、一番重要なのは道を学ぶことで、この道元さんの考え方をすれば明らかに、明らかに(obviously, obviously)原発はいらないよね、と言いました。

「でも日本にはたくさんあるよね」
とスペインの彼はいいます。
「中でも一番多いところは福井なんだよね・・・」
今では随分有名になったあの高速増殖炉の話をすると、日本人以外はみな信じられない様子です。マサカ、福井の名刹永平寺の坐禅堂に鎮座している、あの菩薩と同じ名前が、その原発に付けられているナンテ、本当に目を丸くして驚いていました。

この時、どれだけ悔しく、悲しかったことか!

どうして、ほんとにまあイッタイゼンタイなぜこんなことになるのでしょう。僕はベルリナー達のがっかりしたような、信じられないような不思議な顔を見ていて、東京の友人が言っていた言葉を思い出しました。

「結論が何かはともかく、プロセスを明らかにして、共有する」

そうなんです。コトは人間が独り悩んで結論を出すには大きすぎる。言葉になるわけがない、伝わらない。「こうやって考えて、こうやって行動してるんだ、それでこんなにたくさん失敗したよ」そのプロセスを公開して共有する事が「道を学ぶ」ことであり、問題解決への現実的な道なのではないかと。

人は文殊菩薩にはなれないけれども、三人集まることは出来ます。

やはり、29日には国会前に行こう。主義主張もなにもかも越えてを、静かに共感する時間が欲しい。足を運ぶ事で、原発に断固反対の人も、全く興味のない人も、みんなが何かを共有し、みんなにとって好い一日になりうるのではないか。

そう考えていると、今度はフランスの知人が面白いアイディアを聞かせてくれました。

彼は今のモヤモヤした感覚を「お互いに立場を伺っていて、話題に出来ない感覚」と表現していました。そして実際に行動する事の大切さを自身の体験から説いてくれ、こんな素晴らしいアイディアを提案してくれました。

「その日、みんなで電車や車を使わずに歩いて国会前にいったらどうだろう?」

と。

なんだかドキドキ、興奮してきました。

「え?地方から来る人はどうするんだ?」
「金曜日仕事終わった後から歩き始めたらどれくらいの距離歩けるんだ?」
「走ったら結構行けるかな?」
「帰りがきついな」
「平日だし・・・」
「僕、当日朝に成田なんスけど荷物持って都心まで歩くの?」


でも想像してみて下さい。
そうやって集まった何万人もの人達が「何もしない」で場を共有した時の迫力を。
そこから未来へつながるプロセスの共有が生まれるのではないかと思うのです。

やっぱり、やってみよう、国会前に行って何もしない。

次回へ続きます・・・

th_IMG_3303.jpg

2012/07/17  by

コメントする