雲水喫茶の日替りマスター!!

デモは全く無力という彼(4)

デモは全く無力であると辛辣な「スペインの彼」の考えの背景はこうです(前回記事の続き)。

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多くの人々には "CITIZEN" としてのパワーは全くない。実際問題としてどれだけ政治に大声を張り挙げたところで「当の本人」はいたくもかゆくもない。

なぜか?

「当の本人」はみんなが車や電車でデモに来て、終わった後はペットボトルでドリンクを飲み、家で相変わらず電気製品を使うことを知っている。

みんなが表面上では原発に反対するデモをしていても、その原発を直接的にであれ、間接的にであれサポートしている企業を「同時に応援している」矛盾を知っているからだ。日曜日にデモに行って、月曜日にはまた会社に足を運んで働くことを知っているからだ。



原発に反対している人達は自分たちの生活を変える覚悟が本当にあるのかい?
もし本気でデモをするならなぜそれを月曜日にやらないんだい?
なぜ会社を休んでみんなでデモをやらないんだい?



だからどれだけ大きなデモがあってもスペインでは何も変わらなかった。
、では私たちはパワーがないのか。そうではない。

あるとすれば、それは消費者としてのパワー。

原子力ムラや軍事産業、グローバルな企業がどのような構造をしているのかを知り、気づき、買わないことで声を挙げることができる。
デモに向かうエネルギーを日常生活を観察する力と実践に変えて初めて変化が起こる。
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こんなことを話してくれました。
確かにその通り。うーん、考えました。
僕はよく飛行機を使いますし、車にだって乗ります。家では24時間インターネットがつながります。
なんだかデモにいくことがとても自分勝手なことに思えてきました。

ではどうしたらいいのでしょうか。

次に連絡がとれたのはイギリスの知人です。彼は非常に論理的に今の僕の悩みを整理してくれました。曰く、デモで集まっている人達の中には様々な考えの人がいて、必ず意見や想いの大きさは違うので一枚岩にはならないことを知るべきで、それをまとめることがどこまで効果的か正直わからない、と。
しかし彼は思慮深いと同時にとても行動力のある男です「疑問はあるけれども結局はやってみなくてはわからない、応援するよ」と言ってくれました。

次に話ができたのが京都の知人。
彼はいつも冷静的確に話を聞いてアドバイスをくれます。僕の話を聞き、自分のデモに対する見解を聞かせてくれた上で根本的な解決を試みることを提示してくれました。「こんなライフスタイルにしようよ!」とか「それやめてみようよ!」とか、そういった方向ではなく、人々が不安や恐怖を抱き、何かに縛られて生きているならそれは何か、なぜその恐れにとらわれてしまうのか、そこをあきらかにするのは宗教家の仕事かもしれないね、と。そして日曜日はお坊さんや神父さんは壇務や礼拝で忙しい。けれどもそれを逆手にとって、法事なんかでみんなで集まる機会を未来について考える日にしたらどうか、という提案をしてくれました。素晴らしいアイディアだと思いました。

次にコンタクトがとれたのは別の東京の知人です。彼は同い年ですが、なにやら会社で重要なポジション(CEO?)にいるようで、Skype中も年上の部下らしき人が難しそうな資料のようなものを携え判断を仰ぎにきて、なんだか非常に急がしそうです。仕事中にわざわざ時間をとってくれているらしくありがたいものです。原発に対する考えをまとめてわかりやすく説明してくれました。僕のメモなので途端にわかりにくくなって申し訳ないのですが、読んでみて下さい。

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福島原発の事故は人災だということははっきりしている。
それならば事故の調査が必要で基準と対策を決めるべき。
それが決まらなければ稼働すべきでない。
決まらないのに稼働することはあってはならず、現在稼働していることには反対だ。

問題は

想定外の事態についてどう考えるのか。
未解決の放射性廃棄物の処理問題をどうするのか。
核技術保有など国防の問題はどう考えるのか。
技術革新はできないのか。

これらのことを考慮した上で0パーセント〜現状維持まで色々な場合を想定するべきだ。

しかしYES or NOで争っていて、公開のもとに透明性のある議論が行われていない。
実際に、国民にはそのための判断材料がほとんどない。それを伝えない報道機関に対してデモをするのならわかる。
違うことの専門家が同じテーブルで話すと急に低い次元の結論にまとまってしまう。

>デモについて

革命をしたいのか、蜂起をしたいのか、未来へのビジョンがない。
デモをしても政府はそれをくみとらない。
政府もデモをしている人もどうしていいのかわからない。議論がそれを覆い隠してしまう。
議論をしている人達の共通言語がなく、いつも噛み合ないところに問題がある。
社会全体の次のイメージが甘い。年金も国の政策の問題も結局根本的な本質をたらい回しにしている。

色々な次元で優秀な人が話し合っても、それをつなぐ「共通の言語」がないので総じた結論は非常に陳腐なものになってしまう。

>解決へむけて
それぞれの専門家が方法論を提示する。
結論が何かはともかく、こういう考え方をして、こうなったのだ、というプロセスをあきらかにする。
結論は絶対に相容れないのでそれに至るまでのプロセスをどう共有するかを考える。
分野にまたがって対話する、その為にはまず自分との対話。
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最後のプロセスを明らかにして、共有する、というところに特にハッとさせられました。
それぞれが悩んで出した結論はどれも尊重したいけど、それの良い悪いを論じてもなかなか解決しそうにありません。

そもそも、言葉そのもの、ということ自体が既にプロセスを得た「何かの結論」です。
その「何か」つまり、身体の中で既に起こっているプロセス、こそを共有することが、問題解決につながる。

デモはそのきっかけになるのではないか。

そう考えました。

みんなからの貴重な意見はさらに続きます・・・

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2012/07/17  by

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