雲水喫茶の日替りマスター!!

東京にて 11月11日のデモのこと 

沈黙の日曜日、11月11日に一時帰国して国会議事堂前で黙祷をしてきました。そこで感じた様々なことを以下に書き留めておきます。

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10日に成田についた。町田にある、ばあばのアパートを訪れる電車の中で目に飛び込んでくる吊り広告の文句に絶句。ばあばは食品を気にしている様子もないし、今日国会議事堂前でデモがあることも勿論知らない。

11日のは東京にいる時に住んでいた目黒にあるシェアハウスを訪れた。次々と住人は入れ替わり、今は元々友人だった20代の男性が三人住んでいる。度々一時帰国できるのも、いつも訪れても温かく迎えてくれる人達のおかげだ。本当にありがたい。

雨が降ってきた。Pちゃん(仮)はこれからデートに行くらしい。想いを寄せている女の子がいるが、なかなかデートに誘えないといっていたので心から嬉しかった。彼にとってはデートを全うすることが一番重要なことであって「今日はデモがあるんだよ」と伝えることは本意ではない。愛は大切だ。たまたま僕は運良く東京にいくことができて、運命を感じて国会議事堂前に坐ろうとしているけれども、それをみんながやるべきかどうかは正直よくわからない。

Pちゃんは雨具をなにも持っていなかった僕にレインコートを貸してくれた。デモにいくことよりもこっちの方が大切かな、という気もした。

たかがデモなんだ。

でも僕はデモに足を運ぶ。ベルリンを発つときに、ちょうど日本から道場に遊びに来てくれた知人が、重大な危機を迎えても行動に変化が起こらない日本の人々の様子を「全てがコメンテーター」と表現していた。みんな批評はするけれども動かない、と。僕も口先だけで動かないことが多いから、耳が痛かった。少しでも身体を動かしてこの問題を感じなければと思った。

国会議事堂前につくと雨が降ってきていてかすみがかかっていた。真っ暗な霞のもやに外灯の灯りが広がる。それで霞が関というのかな、と思った。

7月29日に行われたデモに参加した時に比べると少し人が少ない気がしたけれど、雨にも関わらずこれだけの人が来ていることに驚いた。ベルリンの友人達が同じ時間に一緒に黙祷してくれることになっていたから雨が降ろうがヤリが降ろうが行かないわけにはいかない。議事堂前のT字路の邪魔にならなそうなところに坐り込んでじっと黙祷をすることにした。雨が染みてくるからビニールをしいたり、ひざに雪駄をあてて工夫したけれど、結構寒かった。ベルリンはもっと寒いけれどもPちゃんのレインコートがなければ途中で帰っていたかもしれない。

たくさんの人が口々にいろんなことを叫んだり話したりしている。拡声器を通して誰かが「私たちは宗教とかじゃないんです」と言った。そうだよな、ほんとうに。普通に、冷静に考えたらこの状況、こうやって集まって抗議するのは、ほんとうに自然なことだよな。でも宗教に変なイメージがあるんだとしたらちょっと悲しいな、そう思った。

「再稼働ォ反対ー、サイカドォウハンターイ!」
「警ェ察帰れー、ケェイサツカエレー!」
「電気はァいらないー デンキハァイラナー・・・」

「いや、それはいるよねー」「そうだよねー」

黙って坐っている僕の頭の上で若い女の子が隣の女の子に冷静な意見をつぶやいた。

そう、普通の人だったら。それでいいんだよね。正直なところ、そうだもんね。それでいいんだよ。でもそこだよ。
ギクリとした。

「通行の邪魔になりますから、歩道からでないでください」という警察の人達はコーンを立てて、バリケードを作っている。もう言ってることとやってることの意味が通っていない。「タマゴが先か、ニワトリが先か・・・」何がなんだかわからない、とにかく普通じゃない。

でも、一人一人の主張はよくわかる。警察も、女の子も、必死に抗議する男性も、気持ちはすごくよくわかる。

途中色々な人が、坐っている僕の頭上に傘をさしてくれているのが、レインコートに落ちる雨の量でわかる。とってもありがたい。20時が近くなってくると場が騒然としてきた。警察の人は走り回り、興奮している人もいる。

みんな何とかしたいのに、誰に何を言いたいのか、つかみかねているように感じた。
僕は大好きな日本にひさしぶりに帰ってきたんだ。みんな大好きな家族みたいなもんじゃないか。
同じ日本に住んでいる仲間達が、何でこんな寒い雨の日に、ずぶぬれになってこんなことをしているんだろう。

突然涙がどっと溢れてきて、一度は真っ暗な空を見上げて飲み込もうとしたけれども、とめどなかったので雨と一緒に流れるままにしておいた。

デモの終了予定時間である20時を過ぎると人はどんどん帰っていった。
機動隊の人達はキビキビと動いてコーンとバリケードを片付けていく。きっと家では大切な家族が待っているんだよね。

雨で冷たくなったこのバリケードは、誰から何を守っていたのだろう。
そんなことを考えながら、ずっと黙って坐っていた。

正門前の警備担当の人以外はみんなが帰ってしまっでも独りで坐っていた。

しばらくして、主催団体の人らしいオレンジのかっぱのおばちゃんと、警察のおじさんが一緒にしゃがみ込んで声をかけてくれた。

「大丈夫ですか?傘さしましょうか?」とおばちゃん。
「立てるかい?」「どこからきだんた?」とおじさん。

数時間坐ってるのはいつものことだけど、心配や手間をかけさせてしまっては元も子もない。
「ハイ!大丈夫です」といって左右揺振を始めると

「あ、大丈夫そうだね、身体をこわしたら何もならんからね」
警察のおじさんが言った。さっきまで押し殺そうとしていたのに、その声は優しかった。

「いや、誰かが声かけてくれるの待ってたんですよー」と談笑した。

主催団体のおばちゃんが「弁当とあったかい飲み物があるからどう?」とワゴン車がとまっているところに案内してくれた。
みんなが帰った後は、あれだけ緊張状態にあった警察の人とデモに来た人がなごやかに話していたことにとても驚いた。

意見より立場より大事な、大きなものを共有している
夫婦喧嘩の後、仲直りした夫婦のような空気がそこにはあった。

11月は黙祷をしてみたけれども「ただ、何もしない」デモは日本でならできるんじゃないかと思った。

「ただ、何もしない」とは家でのんびりお茶を呑むことでも、叫ぶべき時に叫ばないことでもない。それは私利私欲から離れること。「私が、自分の意志で何かをする」というところから離れ、何もしないことで、自分が本当にやるべきことをさらに見極める。激しく能動的な実践だ。

ただそこにはこれをすれば私利私欲、これをしなければそうでない、という決まりはない。それをしようとした途端に間違ってしまう。

「何もしないで何かをする」というのは、何をするかよりもみんなでそれを共有することそのものが大切なのかもしれない。ただ、足を運び、場をともにすることをこれからも続けてみようと思う。

おみやげにとおばさんに頂いた甘栗と傘とカッパが何より心に温かい火を灯してくれた。

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2012/12/28  by

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