雲水喫茶の日替りマスター!!

人を殴る前に話しておきたいこと

毎週土曜日は坐禅に集まってくれた人達と一緒に正法眼蔵随聞記を読みます。
昨日は道元禅師の師匠である如浄禅師が、居眠りしていた僧を拳や靴で打っていたという話でした。(2-25、ちくま学芸文庫では20(2))。

長老巡り行いて睡眠する僧をばあるいは拳を以て打ち、あるいは靴を脱いで打ち恥しめ勧めて睡りを覚す
(すると如浄禅師は回っていって、居眠りする僧をあるいは拳で打ち、あるいは履物をぬいでそれを打って恥ずかしめ、精進をすすめて眠りをさました。/The abbot walked around hitting them with his fist or his slipper, scolding them and encouraging them to wake up.)

出典:正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)
SHOBOGENZO ZUIMONKI(曹洞宗ウェブサイトより)


以前アメリカに住んでいた参禅者は
「今、アメリカでは親が子供を打ったことを近所の人が訴えて虐待問題になる可能性がある。それどころか大きくなった子供が親を訴えたりすることさえある」
と教えてくれました。

「私は小さな頃、父親にほとんど打たれたことがなかった。ある日突然父親が私に平手打ちをした。それは私が窓から身を乗り出そうとした時だった。私はそこでリミットが有ることを学んだ。私は今でも父親の愛に感謝している」
と言う人もいました。

私が永平寺で修行をしていた時は古参からよく拳で打たれたものです。その瞬間は非常に腹立たしかったのですが、自分が古参になって打たれたことに感謝するようになりました。衣食住を共にし、自他を共有する家族のような感覚のある場では、誰かを打つことは自分を打つことに他なりません。そういった場では人に厳しくするには、自分にはさらに厳しくなくてはいけないからです。
私を殴った先輩は数年後、山を後にしました。眼に涙を浮かべ静かに黙って三敗する姿に私も涙を必死でこらえました。それは今までみたどんなお拝よりも美しいものでした。山門にはたくさんの雲水が見送りにきて名残をおしんでいました。普段その先輩を嫌っていたはずのものまで。

私は人を殴ることの是非を論じたいわけではありません。刃物で人の身体を切る行為でさえ、手術のように場合によっては人を助けることにもなりますから是非は論じても仕方がありません。ただ、例え拳で人を打ったとしても怨みや過度な暴力とならない(なりにくい)場が、古今東西確かに存在していることの意味を考えてみたいです。

それは、確かにある。一方そうでない場、体罰、虐待、暴力や訴訟まで起きてしまう場合も確かに、ある。

そうだとしたら「拳で打たれても感謝してしまう場」と「そうでない場」とは「何が違うのか」。確かにある「その場とそうでない場との差異」を徹底的に分析することが現実的なのではないでしょうか。

ちなみに如浄禅師は弟子を靴で打った後「あなた達は国の宝だ。職務上やむなく打ったが、どうか慈悲をもって私の行為を許してください」といって涙を流したという逸話が残っています。

「慈悲とはすなわちあらゆる人、あらゆるものが己以外の人やものの反映にすぎないと認めることである」

チベット仏教のミンゲール師は言っています。殴ってでも何かを伝えようとしてくれる人が側にいることは、実は有り難いことなのかもしれません。



ではもう一度殴られたいかと聞かれると?
答えは決まっています。



「ヤダ、絶対!」



星。


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2013/08/11  by

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