ひょんなことから出会った界隈に住むイタリア人写真家のお宅でピザを御馳走になった時のこと。食後に見せてもらった彼の写真、シャープで力強いのにやわらかく優しい表情の作品達に感動しました。
「なぜこんな写真が撮れるの?」「どんなカメラを使ってるの?」「ピントはどうやって合わせるの?」
プロの写真家には少々無礼かもしませんが、近所のおっちゃんでもあるし、ま、いいか、と興味の趣くままに質問させて頂きます。
「そもそも眼にピントが合って鼻がぼけるのはなぜ?」
「なぜって焦点を合わせているからだよ」
「でも両目はクッキリなのにその間の鼻はボヤけているでしょ?ココとココは眼だからって範囲をカメラが勝手に判断できるの?」
素人丸出しの問にも彼は丁寧に答えてくれます。
「焦点はレイヤーっていうのかな、深さがあるんだ」
「ふうん、なるほどね。 ふうん・・・ !!!!!!」
え、ビックリ。
いや、ビックリは随分控えめだ、「革命」、「ブレークスルー」とでもいえましょうか。「わかっている」人にとっては「何それ当然でしょ」程度のことかもしれませんが、私にとってはそれほどの衝撃でした。というのもそれまで私は自分自身の肉眼でモノを見る際に焦点の深度(被写界深度というそうです)を全く無視していたからです。言葉にするのが難しいのですが、視野という一枚の平面上の「ある範囲」に焦点を平行移動させるような感覚でいたのです。ちょうどスマホで写真を撮る時に画面上をタップした点にピントを合わせるように(図参照)。

みなさんは知っていましたか?
これ、世間では常識で僕だけ勝手な思い込みをしてすごしていたのでしょうか。表現も指摘も難しい身体的なことは当然と疑わず一生を終えてしまいかねません。あまりのショックに今でも整理しきれないのですが、なんというか、10年以上あちこち探しまわっていたリュックを実は自分が背負っていたことに今ようやく気づいた!というような。
しかし冷静に身体を探ってみれば確かに被写界深度をイメージした立体的な認識の方が体感的にも滞りがありません。「平面上の焦点を移動させる」のではなく、「レイヤーの厚さ自体を変化させて、その奥行きの中に焦点を収める」といったイメージだと絞りの感覚も腑に落ちます。しかも人間の眼は「一眼」ではなく「両眼」でもっともっと奥が深いはず。この調子でさらに思い込みが解れていけば、まだまだ想像もできなかったようなビックリがあるにちがいありません。
興奮しすぎました。
世の中わかっているのにわからないことや、知っているのに知らないことだらけ。でもだからこそ踊り出したくなるような感動に出会えるのかもしれませんね。
今週も好い日々となりますように!
星覚九拝
『若し彼の猿馬をして、一旦退歩返照せしめば、自然に打成一片ならん。是れ及ち、物に転ぜらるるも、能く其の物を転ずるの手段なり。此の如く調和浄潔して、一眼両眼を失うこと勿れ。』
(もしその林の中を跳び廻る猿や野原を駆ける馬のように妄動し外物に向けられる情念を、ある時点で内に向けて深く反省(退歩返照)したならば、おのずと自他を区別する心もおのずとなくなり、一真実心だけになる(打成一片)であろう。これこそ、心が外界の影響を受けようとも、それによって心が乱されたりせず、積極的に外界のものを動かしてゆく方法である。このように心と外界とがよく調和し、もののよしあしを区別する心もすっかり清らかにして、一隻眼という高所大所からものを見るすぐれた見識とともに、現実のものをしっかり見据える一般的な肉眼も失ってはならない「典座教訓・赴粥飯法/講談社学術文庫より」)
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