フリーペーパー"MADO BERLIN"に「禅的革命の起こし方」というインタビュー記事が掲載されました。
尚、本文で登場する「ワもダラならワーもダラだ!」はゆっくり小学校用務員の上野宗則さんが、師匠である天野祐吉さんから伝授されたものを方言にした作戦です。
尚、本文で登場する「ワもダラならワーもダラだ!」はゆっくり小学校用務員の上野宗則さんが、師匠である天野祐吉さんから伝授されたものを方言にした作戦です。
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以下転載記事。
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禅的革命の起こし方
ー星覚さんのブログを読み、鳥取県の水源地に産業廃棄物最終処分場を建設する計画が問題になっていると知りました。なぜこのような事態になっているのでしょう?
「実は私も最近になって問題を知りました。なぜこのような事態になっているのか、正直今でもよくわかりません。わからないながら、鳥取県の問題に関して現時点で私が理解している限りではこういうことです。産業廃棄物最終処分場とは簡単にいうとゴミ捨て場です。自宅の庭に喜んでゴミを捨てたがる人は誰もいません。本当は廃棄物を出さないことが一番ですが、産業、つまり今の生活を続けるためにはどうしても出てしまう。そこで水源地である鳥取県の淀江町に廃棄物処分場を建設せざるをえないと主張する人達がでてきました。一方で、それに反対する人達もいます。水を汚す処分場を建設するのはやめ、我々が廃棄物そのものを出さないようにしよう、という主張です」
ー「実際に廃棄物は出ているのだから、嫌でも作るしかない」、「水を汚す施設を作るぐらいなら、廃棄物を出すのをやめよう」、どちらの言い分もわかる気がします
「そうですね、どちらもそれなりにわかる。しかし私にはどちらも「よくわからない」部分があります。例えば廃棄物とはどんなものが、どのくらい出ていて、それをどうやって処理するか、よくわからない。「どこかに作るしかない」という前提も、本当はより好い代替案があるのかもしれません。が、これもよくわからない。例えば「水を汚す施設」がどのくらい危険なのか、よくわからない。廃棄物を出すのをやめることが自分以外の人達にどのくらい現実感があるのか。これもよくわからない。私を含め、実際多くの人は「よくわからない」というのが現実ではないでしょうか。いや、私はよくわかっている、という人でも特定のネットワークの中で聞いたことをそのまま話しているだけということが少なくない。「禅をわかっているという人間は禅をわかっていない」とよく言いますが、「よくわからない」ことが前提にあるから一生懸命わかろうとする衝動が生まれるのだと思います。多くの人が「よくわからない」ことは相手にバカにされ、つけ込まれる弱点だと思っています。しかし傲慢にならなければ、事情がよくわからないことを恥じる必要はありません。「よくわからないけど処分場は必要な気がする!」「よくわからないけど処分場はなんとなくいやだ!」この「よくわからない」という共通項は人々を結びつける大きな力となります。極端にいえば自分がバカであると認めることです。これは、意見の違いをこえて人々を共鳴させる最も効果的な方法のひとつです。」
ー自分がバカと認めるとはどういうことですか?
「人は何かを主張する時に「俺は賢い、お前はバカだ」という態度をとりがち。するとどちらが賢いか、正解のない主張の仕合いになってしまい、いつまでもお互いに相手を責めることになってしまいます。自らをバカと認めると気負うものがなくなり、相手の尊敬できる部分を素直に認めやすくなります。「よくわからない、自分はバカだ、しかしあなたもバカだ」とバカの仲間を作ってみて下さい。山陰地方の方言にちなんで「ようわからん、ワもダラならワーもダラだ!」作戦です」
ースゴい作戦名ですね!
「相手のバカさ加減を自分の中にも認め「君もバカだけど、私もバカなら負けていないよ」と、相違点でなく共通点にどこまでも注目していく。相手が持つベクトルに寄り添ってから、自分がその針路を変えてしまう。するといつのまにかそれが相手にも伝わり天地がひっくり返るような状況の変化が起こる、そういったことは確かにあると思います。宮沢賢治さんの「どんぐりと山猫」でも「いちばんばかなものがえらい」と山猫が言った途端に価値観が覆り、争いが一気に静まる場面がありました」
ーしかし「よくわからない」をハッキリいうのが難しい世の中になっています
「道元禅師は『古人云く「智者の辺にしてはまくるとも、愚人の辺にしてかつべからず」と。我が身よく知りたる事を、人のあしく知りたりとも、他の非を云ふはまた是れ我が非なり』(古人は「智者の見る前で敗けるのはよろしいが、愚かな人の見る前で勝ってはいけない」と言っている。自分が正しく知っていることを、人が間違って理解していても、その間違いを言い立てると、それは自分の間違いとなる)と正法眼蔵随聞記の中で言っています。「よくわからない」ことは堂々と認め、ほんとうのところはどうなのかをお互いの心の声に耳を傾け探っていく姿勢の方がいいのではないでしょうか。大切なのは相手を言い負かそうとしない態度です。疑問が1つでも見つかったら、その10倍は共感できることを探すくらいがちょうどいい。母親がいる、口から物を食べる、血が赤い、など当たり前のことでいいのです。共通点に注目し、相手も自分と同じ、納得できないこともあるけどいいところもあるな、と思えると、お互いの意見の違いを越えて尊敬し合える関係が築けてきます。これは時間も労力もかかりますが、相手を攻撃する必要も、相手から攻撃される必然性もなくなるので、とても楽しく協力しながら続けることができますよ」
ー一つ何かを買えば二つ以上のゴミが出る、今の生活は冷静に考えると持続可能なはずがありません。こういった現代社会の不条理に対して世界中で様々な反対運動が行われています。特に日本ではどうしたらこれを変えることができるでしょう?
「頭で考えるのではなく、全ての人類が行なう振る舞いに注目するといいのではないでしょうか。一概にはいえませんが比較的、日本人は意見を言葉で表現するのが苦手です。そのかわり行動で表現することを重んじる傾向があると思います。例えばドイツにいるとよく珈琲にしますか、紅茶にしますか、と聞かれることが多いのですが私はいつも自分の意見がうまくいえません。日本であればあまりこういった聞き方はされません。相手の気持ちを慮った上でどちらかの飲み物が出てくる。紅茶が欲しいのに珈琲がでてきたら残念ですが(笑)その微妙な態度の変化をお互い慮ることが日常的に行なわれ、人間関係ができていきます。お茶を飲む、という人類共通の行為はどのようにしたら円滑に行なわれるのか。こういった何でもない行動でも大切に追求して茶道のようなものに昇華してしまう性質が日本人にはあります。賛成か反対か、誰の意見が一番納得いくかを考えることも大事ですが、寡黙でも多くの人に尊敬されている人の行動をよく観察して、真似るとよいのではないでしょうか」
ー日本国内だけならいいかもしれませんが、国際社会で意見をはっきり言葉で表現しないと不条理に押し切られてしまわないでしょうか?
「これが一番大切なのですが、早寝、早起き、洗面、トイレ、食事、掃除といった昔から日本人が大切にしてきた習慣をできるだけ多くの人と共有し、丁寧に続けて行くことです。これらは古今東西、世界中の人達が大切にしてきた共通項です。意見の違いは一度棚にあげ、わからないことはよくわからないと認めてしまう。それでも一緒に坐る、立つ、歩く、水を飲む。これらを共有している限りは難しい言葉で意見を表明しなくても、多くの人が共通して願っている想いが見えてくるはずです。水と暮らしに漠然とした不安を抱いているのは日本人だけではありません。どうすれば水を汚さない暮らしができるのか、一歩一歩、心を合わせて進んでいけば必ず皆が納得する落としどころが見つります。私たちはいつの日か「美しい庭にゴミ捨て場をつくる必要がない」暮らしを共に再発見することができるはずです。
最後にひとつ、聖書にこんな話がありました。イエス・キリストが集まってきた5000人の群衆にたった5つのパンをわけ与え、すべての人が満腹になったというお話です。5つのパンを5000人にわけることは普通に考えれば無理です。しかしあなたがその場にいると想像してみて下さい。無理とわかっていながらも自分のパンをわかち合いはじめた人をみて、あなたはそれを放っておけるでしょうか。5000人の人たちが同じように(パンに限らない)自分の資源を分かち合い始めたらどうでしょう。
不可能に思えることもみなが集えば十分可能になると、私は信じています。まずは一緒に坐る、立つ、歩く、水を飲むことから。
ここをいい星にしましょう」
米子市の行く末に関心を持ったあなた、身近で同じような問題があることに気づいたあなた、何かを変えたいと思っているあなた、まずはこちらで星覚さんからのメッセージをキャッチしてみてください!
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