社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#34 ダンス,社交,合鴨農法

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《札幌近郊のながぬま温泉にて。一人一人,思いを語ります。》

みなさん,こんにちは.

先日,北海道合鴨水稲会の総会,研修会に参加してきました.

ぼくは,以前在籍していた農学部の大学院生時代に,
3年ほどこの会の事務局を担当させて頂いていたことがあります.
その時の縁で,今回久しぶりに声をかけてもらいました.

事務局の大学院生を含め,生産者の方,農業試験場の方,大学の先生など,
今回は10数人の小さな集まりでしたが,
短時間の総会の後,識者2人のスピーチを聞き,
久々に触れる農業現場の現状に認識を新たにしました.

研修会のご高説もそこそこに,
温泉に入り,酒を飲み,互いの近況を語り合い,旧交を温めました.

合鴨とは,アヒルと真鴨のあいの子です.

合鴨農法とは,その合鴨のヒナを田んぼに放して遊ばせることによって
雑草が生えるのを防いだり,害虫を駆除したりする効果を利用した
農業の方法のことです.

大きなくくりとしては
「有機農業」の中の一つに「合鴨農法」がある
と理解していただけると良いと思います.

興味のある方は,こちらをどうぞ.→ 北海道合鴨水稲会

今でこそ有機農業は,肯定的な目で見られるようになりましたが,
20年前,30年前はそうではありませんでした.

   周りの人からは変人扱いされた.なんて非効率な.なんて前近代的な.
   それに,当時(今も?),有機農業は新興宗教の専売特許だったから,
   変人扱いどころか危険人物扱い.

そんな評価を受けてきたようです.

有機農業に取り組んでいる方達とのこれまでの交流から,
そういう話は聞いていましたし,
この時も,当時を懐かしむように会員の1人がそう語ってくれました.

だから,この会を作り,
ここでの集まりを通して,お互いに励ましあって,
何とか逆境に負けないようにしてきたと.

ぼくは,思想というものには流行すたりがあると思っています.

人類にとっての普遍的な真理のような思想があったとしても,
時代が変われば,廃れていくこともあると思っています.
ちょっと寂しい気もしますが.
やはり諸行無常.有為転変.

そんな中で,
「有機農業は変人のやるもの」という常識もいつかは変わる,
という思いのもと,
有機農業に誰も目を向けなかった時代に,有機農法を実践し,
時には迫害の憂き目にさらされながらも継続し,
時代が自分達の取り組みについてくるまでやり抜くという姿勢は,
この上なく尊いものだと思います.

自分を周辺に追いやる今の常識は唯一絶対のものではない,
いつかは報われる,と思いながらも,
それがいつ変わるのか何の保証もない状態で,
やっていかないといけないのですから.

話は飛びますが,社交ダンス.

一般的には,英語で言うところの「social dance」のことです.

直訳すると「社会ダンス」.
でもこれだと,ちょっとヘンな感じがしますね.

(厳密には,今の日本で使われている「社交ダンス」という用語は,
social dance」の一分派である「ボールルームダンス」のことを
指しています.)

本来なら,
「社会ダンス」となるところを,「社交」という言葉で代用したということ.

ぼくは,
この「social dance」が「社交ダンス」と翻訳されたことについて,
とても興味を持っています.

とくに「社交」という言葉が使われたことについて,
「社会」という公共空間で踊られるダンスという意味に留まらず,
「人間と人間の交わり」という要素を反映させた,
秀逸な訳語であったと思っています.

(「社交」ということばの語源には,定説が未だないようですが,
柳父章さんの『翻訳語成立事情』を参考にすると,
福沢諭吉が「social」を「社会」と翻訳する前に,
「人間交際」という訳語を充てていたことに
ヒントがありそうな気がしています.)

さて,
このように社交ダンスという言葉の中には,
「人間同士の交わり」を含む「社交」という言葉が使われていますが,
この「社交」という人間関係のあり方は,
日常のいろんな場面で見られるものだと思います.

山崎正和さんは,
社交的な人のことを次のように表現しています.

     社交のなかでは人々は互いに中間的な距離を保ち,
     いわば,付かず離れずの関係を維持することが期待されてる.
           ・・・(中略)・・・
     社交的な人はしらけない人であって,自分のものではない
     さまざまな感情の物語に「つきあう」ことのできる人である.
     それはもちろん,単純に自己を偽るということではなく,
     感じてもいない感情を偽造して表現するということではない.

(『社交する人間』中央公論新社 2003年 p.23

つまり,
社交的な人というのは,

「おもしろくないのに笑ったり,自分ではどうでもいいと思っている話なのに,
さも興味ありそうに相づちを打ってしまう自分は,演技しているし,
自分で自分を偽っている.こんなものは"本当の自分"じゃない!」

と言って,
自分の心の琴線に触れるものだけに純粋に反応していこうという態度をとる人
でもなければ,

逆に,
自分が全く共感していないのに,
ノリを良くして場の雰囲気に適当に合わせることを積極的に行う人でもない
ということです.

より簡単に言うと,
自分(本当の自分)をさらけ出し過ぎてもいないし,
逆に,
自分を全く出さずに,よそよそしさを表に出してもいない,
ということでしょう.

合鴨水稲会は,もうすぐ発足20年を迎えようとしています.
ここに至るまで,会員のみなさんの間には,
こういった人間関係があったのではないかなと.
そう想像しています.

どれだけ辛いことがあったとしても,
周囲が不快になるほどに表に出すこともなく,
自制された態度で互いの近況を報告し合い,
かと言って,
機械的な人間関係に留まるというわけでもなく,
適度な距離感を保ちながら,
互いにとって有益な方向性を探ったり,
そのための英気を養ったり.

これを「社交」と呼んで良いのかどうかは分かりませんが,
水稲会ではそんな人間関係があったのではないかと.

もしも,
自分をさらけ出しすぎる人が多かったら,つまり,
時には美徳と言われる「おれがおれが」と自己主張する人が多かったら,
合鴨水稲会は互いが互いに衝突して,
会として今の姿を留めていなかったと思います.

逆に,
自分の考えを全く外に出さず,沈黙を美徳とする人が多く,
機械的な対応,表面的な人間関係だけが求められていたら,
そもそも何のためにみんな集まっているのかが分からず,
ただただ互いが互いに対する不信感,警戒心だけを募らせる集団になり,
これまた,会としての成立を見なかったと思います.

当然ですが,
この会に限らず,人間関係においては,
あらゆる場面で「社交的な態度」が求められていると思います.

そして,これは,
人間関係を円滑にするために,
みんなが無意識に則っている原理のような気がしています.

うまく折り合いをつける,うまくつき合う,とか.

そういう解釈の幅の広い言葉で表されているのは,
まさに「社交的な態度」のことではないかと思っています.

儒教の言葉で言うと「中庸」.
どちらの極にも振り切れ過ぎていない態度.
とでも言うんでしょうか.

これまで,
学問的にあまり注目されることの多くなかった「社交」というテーマは,
学問的にも実人生においても,
存外に深い意味を持っているように思います.

今後は,ぼく自身,
この「社交」を大きなテーマにして,
世の中を見ていきたいと思います.

山崎正和さんの言うように,
「社交」には現代の人間関係のあり方を見直すうえで,
何か大切な要素が潜んでいるのではないかと.

人間関係はとても難しいもの.
だからこそ、いろいろと考える価値のあるテーマだとも思います.

今回はこの辺でzzz

2011/03/03

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