社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#35 社交ダンスと『こころ』

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《小樽駅前。夕暮れ時の喧噪と散り出した綿雪。雪灯りが夢幻へと誘います。》

みなさん、こんにちは。
明治の文豪、夏目漱石の作品に『こころ』があります。

日本人のだいたいの人は、過去に読んだことがあるのではないかと。
内容は覚えていなくても題名は知っている人が多いのではないでしょうか。
中国から来た留学生の友人の話では、
中国では高校の授業で読むところもあるそうです。

かなりざっくりとあらすじを言うと、

主人公の青年が、群衆の中から、一方的に「先生」なる人物を見出し、
最初は私淑し、すぐに直接の交流を持ち、行動をともにするなかで、
いろいろな内面的経験を積んでいくというお話です。

後半はほとんどが「先生」のディープな内面の告白になっており、
この点を指して、「暗い話」だと評する人もいるかもしれません。

さて、
「社交ダンスというツール」を使って仕事をしている人にとって、
その業務の形態には、
「見せる(実演する)」だけではなく、
「教える」ということも含まれます。

むしろ、
「社交ダンス関係で食べている人」の99%は、
「教える」ことで収入の大部分を得ているとも言えるでしょう。

それほど、「教える」ということは
社交ダンス教師にとって、大切な仕事になっています。

社交ダンスを教える人に限らず、
「何かを教える」ということを生業にしている人にとって、
いわゆる「先生」と「生徒」という関係のあり方というのは、
常に身近な話題だと思います。

今回は、『こころ』から、
「教え/教えられ」の関係について考えてみました。

この話の中では、
特に前半から中盤にかけて、
「先生」が自分を敬慕してくる主人公の青年との
距離感を探っている様子が描かれています。
注意深く言葉を選び、発話する姿勢というような。


   「かつてはその人の膝の前にひざまずいたという記憶が、
    今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。
    私は未来の侮辱を受けないために、
    今の尊敬をしりぞけたいと思うのです。」(角川文庫 p.41

「先生」は、
自分を慕って寄ってくる青年に、
「あなたは熱に浮かされている」と言い、
さらに、

    「熱がさめるといやになります。
     私はあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。
     しかし、これからさきのあなたに起こるべき変化を予想してみると、
     なお苦しくなります。」(p.39

と言っています。

こう言って「先生」は、
今は気分が盛り上がっているけど近い将来にその熱が冷めるだろう、
ということを見越して、
青年に対して、自分にあまり近付かないようにとたしなめています。

熱狂はいっとき限りのものだから、
その「熱に浮かされて」のめり込みすぎるのはおやめなさい、
ということでしょう。

のめり込みが深ければ深いほど、
熱が冷めた時の失望も大きくなる。

それだけでなく、
時としては反動的に、その失望は相手への軽蔑、侮辱に変わる。

「先生」は、そういうことを言っているような気がします。

こういうことは、日常的に見られそうなことですね。
「針が真逆に振れる」というか、
「てのひらを返すというか」、
「前言撤回」というか、「変節」というか、「恩知らず」というか。

「最初はあんなに輝いて見えたのに、今は何の魅力も感じない。」

そういうことは、生きているとよくありそうです。

そして、往々にして、
自分サイドの変化を棚に上げて、
「最初はあんな人じゃなかったのに、最近はちょっとね...」
とかいったことを平気で言ってしまう。

こういうことはよくありそうです。

当然、
心酔の対象者が俗物に変化する面も往々にしてあるとは思いますが、
それと同じぐらい、
自分自身の感じ方であったり、価値観であったり、
評価の基準とかも変化しているということを踏まえないと
フェアではないような気がします。
責任を一方的に相手に押し付けているような気がします。

さておき、

こうやって、
かつて心酔していたものがどうしようもない俗物に思えてしまう
ということは、よくあることだと思いますし、
ある意味、防ぎようのない心の動きだと思います。

ぼくは、
この話から引き出せる大切な点は、
次の点だと思っています。

それは、
この、言わば「変節」は、
主人公の青年個人の性格、資質に帰せられるものではなく、
人間一般に備わった傾向のようなものであるのではないか、
ということです。
もう少し、この「変節」について考えてみたいと思います。

この話を読んでいて、
ぼくは次のように思いました。

「先生」は、
人間の持つこのような傾向を経験から知っていて、
それゆえにこのことを、
自分の胸中を青年の納得がいくように説明できないことに
もどかしさを感じていると。

そして、
人間は皆、生まれつきの恩知らずで、
将来的に「恩を仇で返される」のが怖いから、
勝手に自分の一言一句に感動しないで、
何かを学んだという気にならないでほしいと。

そういうことを「先生」は考えている。
そういうふうに思いました。

ぼくには、これがとてもよく分かる気がします。

例えば、
ぼくが自分なりに発言し、行動しているのに対して、
教わる側に自分を位置付けた人は、
勝手に、本当に勝手に、
ぼくの発言に意味を見出し、感動し(ここまではありがたいのですが)、
ある時には失望し、呆れ、裏切られたと言って侮蔑の対象におとしめる。

こんな理不尽なことはないと思います。
そっちが勝手に思い込んでいただけなのに。

「先生」のように、
近い将来受けるかもしれない相手からの失望、軽蔑を恐れ、
これ以上自分に興味を持つことはやめてほしいという態度も
極端なような気もしますが、

やはり、
人間には、自分勝手に相手像を作り上げて、
相手がそこからはみ出した行動をとると、
「変わってしまった」と言って、
幻滅するような傾向がある気がしています。

では、どうするか。
何を考えるべきか。
このことについてどういう態度をとれば良いか。

その一つの方向としては、
まずは、次のような認識を持つことだと思います。

「教え/教えられ」どちらかの領域に限らず、
価値観、体調、気分、利害関係、経験などによって、
人は常に変わり続けているものであり、
見ている対象物も変わっているし、
見ているこっちの目も変わっている。

こういうことをまず前提にすると。

そして、
「ああ、この人最近、魅力なくなったな。」と直感したら、
そこはフェアに、本当に相手自身の魅力がなくなってしまった部分と、
自分自身の興味が薄れた部分を半々ぐらいに見てあげる。

そして、
その後、どっちの部分が多そうか、
はたまた別の要因がありそうかを考えてあげる。

そんな思考のあり方が、
ひとまず試験的に思いつけそうです。

いろんな対応の仕方がありそうですが、

教える側も相手にそんなに期待しない。
むしろ相手ができない(ように見える)場合、
それは自分の教え方が不適当かもしれない、
相手は自分の想像の先を行って、新たな学びを展開しているのかもしれない、
という別の可能性を考えてみる。

逆に、
教わる側としても、教師側に全てを求めない。
「昨日と言っていたことが違う」
と言って揚げ足を取ることに血道をあげるのではなく、
「なぜ昨日と違うことを言っているんだろう?
それは状況が違うから?
それとも違うように見えているだけで、
実際には同じことを別の表現で言い換えただけなのかも。」
とかいった可能性を考えてみる。

そんな「クールな態度」もありなのかな、と思っています。

今回はこの辺でzzz

2011/03/10

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