雲水喫茶の日替りマスター!!

なぜ、「ただ何もしない」の?(8)

国会前に足を運び「ただ、何もしない」ことについて。友人から早速とてもよい質問を頂きました。ありがとうございます。ですので、一度終わったはずなのですが、前回の続きです。

その質問は

「それを行うことに、どんな理由があるのか。」
「それを行うことで、どんな影響が期待できるのか。」

というものです。


率直に言うと「何もしない」ことには理由も期待できる影響もありません。
だからこそ「何もしない」ことに理由があり影響が期待できるのです。


ただし、これは誰にどういう状況で答えるかによって違ってくるので
ここでは「一般的には」、という形で出来る限り僕の考えを述べてみたいと思います。


まずこの「何もしない」ことをやってみようと思ったのは、それが日本で日本人を中心に行われるからです。理由も影響も期待できないことを「ただ、やること」が日本人は得意です。

日本以外の国で、日本以外の人達が行うとしたら、少し難しいかもしれません。例えばドイツの人達は自分が納得できる明確な理由がないと行動しない傾向がある気がします。


いや、そんなことはない、という人もいるかもしれません。でもベルリンの剣道場にくればすぐにわかります。あ、日本人ってすごい!って。

昨日ベルリンで剣道を教えている方とお話しする機会がありました。その方はベルリンの人々に型や作法を教えるのに非常に苦労しておられました。袴のたたみ方や、竹刀の扱いを教える際も、論理的に理解できることはすぐに覚えるのですが、よくわからないものをそのまま見て真似をする、型や礼法は苦手なようです。確かに弟子が先生に礼を尽くして型や作法を守るのに明確で合理的な理由を挙げるのはとても難しいでしょう。

日本人の場合は、明確で合理的な理由がなくても空気で動くことができる人が多い気がします(これは諸刃の剣でもあるのですが)。故に「学ぶ」姿勢に明らかに諸外国の人が持ち合わせていない感性を発揮するのです。

それは「個々の考え」を超えて、伝わるものに五感を開く感覚。

「説明できないが、伝わるもの」を省いてしまうと、日本の「道」がつく伝統は形だけがおかしな雰囲気で伝わってしまいます。

相手を倒すことが出来る、強くなる、といった合理的な理由や効果は(あることはあるのですが)あくまでも「わたし、個人」に対して伝わる理由や効果です。
そうでないものをこそ、扱っている場合、「個人の考え」はかえって邪魔になるため日本の武道は型や作法を実践するプロセスを身体で共有するという手段をとっているのだと思います。

プロセスを身体で共有して伝わった智慧は、個(生命体、個人の考え)が滅んでも継承されます。
原発の背景にある問題は何世代にもわたって取り組んできた(とりくんでいく)問題ですから、まず「個」から離れるて考える「プロセスの身体的な共有」が必要であると思うのです。

だからこそ、日本人の出番です。だからこそ、まずは引き算です。どんどん「私」をとりはらっていって、それでもつながる何かを探す。
今の原発再稼働を巡る議論に「プロセスを身体で共有する」という日本人が一番得意とする世界に誇れる長所を導入すると、きっと今までにない新しい世界のあり方がみえてくる。そう思ったのが僕が、今こそ、「何もしない」をしたい大きな理由です。



このためには

違う(考えが)という前提で、なぜ自分の考えが正しいか相手を説得するのもよいのですが、
同じ(身体が)という前提で、何が違うのか相手を理解しようとするプロセスが

つまり「差異より相似をみつけていくこと」が決定的に重要です。10年前と違って、今では「考えの共有」はインターネットを通じて世界中で可視化できます。相手を理解しようとするプロセスは歴史上かつてない広がりを見せているといえるでしょう。このプロセスの中に可視化できない、理由も影響もない、けれども人間にとって普遍的に共感できる身体的共感を加えるとどうでしょう。

例え考えが違っても、根底の水脈がつながっているため、お互いの相似を認め合い、違いは相互に納得できる結論に歩みよる議論ができるのです。
これがないままの議論は共有できる身体性が欠如しているため、いつまでたっても主張は平行線、相互に納得して共生することは非常に困難です。インターネットによる縁の可視化に「身体的共有」を加えることで、日本人ならではなの素晴らしい文殊の智慧が生まれ、相互理解と共生を軸にした新しい世界のあり方を提案できると思います。



それでは具体的にどのような「身体の共有」ができるのでしょうか



例えば一緒に掃除をする、食事をする、早起きをする、トイレに行く、お風呂に入る、などをすれば一番よいのですが、まさか国会前でみながこれをするわけにはいきません。思想や文化的背景を超えて、いつでも、だれでも、どこでも、みんなができる行動を探っていきました。結果、「何もしない」に辿り着きました。

「何もしない」とは「個人の考え」をできるだけ少なくしていくことです。それでもそこにあるナニカ。立っていればバランスをとっています。坐っていても、寝ていたとしても呼吸をしていますし、内蔵や不随意筋は常に動いています。これらの意志を介さない行動は「個人の考え」に邪魔されることがないだけに、言葉では説明できない「共有」をもたらします。

身体的共有を前提にお互いが「個人の考え」を公開し、何が違うのか相手を(説得よりもまず)理解しようとする「プロセス」を共有することで、これまで考えても考えても、戦争以外結論がでなかった不毛な議論の歴史に終止符を打ち、共生につながる智慧のある議論にシフトできると考えます。


以上、僕が「ただ、何もしない」ことについて理由、期待できる影響を40分で一気に綴ってみました。
よい質問をありがとうございます!冗長な説明になりましたが、とりいそぎ、答えになっていれば幸いです。

どうぞよろしゅう

星覚九拝




追記

慣れないものが自分の考えを、万人に伝わるように言葉で論理的に説明しようとするとどういうことになるか。とてもよくわかりました(肚と繋がらないのです。肚とつながる活動は響きが違う)。

書いている間、背骨は不自然に湾曲し、骨盤は締め上げられ、太腿は緊張し、肩は張り、顎は固まり、呼吸は喉までを浅く出入りします。慣れるとこれができて、それが楽にさえ感じてしまうのですが、実は大変な緊張を自分に強いていたことに20歳まで気がつきませんでした(僕の場合は、です。これが身体的負担を伴わずにサラッとできてしまう人も結構います。向き不向きがあるのでしょう)。

これだけの苦労をして文字にしたところで、前の記事に登場した東京の知人にいわせれば「共通の言語がないため陳腐になってしまった結論」になることは容易に想像ができます。

西暦は2000年を過ぎました。

「この緊張や思考の労苦から、そろそろ別のベクトルを探してもいいんじゃないか」

そんな想いも、今、「何もしない」を呼びかけた大きな理由のひとつです。
最後までお読み頂きありがとうございました。

2012/07/21  by

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