雲水喫茶の日替りマスター!!

zen go!の最近のブログ記事

「笊」

老師がいってました。

「人間は笊みたいなもんだ。
一生懸命水を掬おうと思っていてもどうしても隙間からこぼれ落ちてしまう。
但し一つだけ、笊を水で一杯にする方法がある。

それがわかるか?













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それは笊ごと水の中に放り込むんだ。」




永平寺一年目の生活で勇気づけられた言葉。身体全体で、飛び込む。





さて、今週は社交ダンスインストラクター、あっちゃんのLittle Starが更新されています。
今回は教えることと教わることの興味深いお話です。
あたたかさで教えを伝える「面授」という言葉を以前紹介しましたが、学ぶとは、真似るとは、師匠も弟子も常に学び続けることなのかなぁと思いました。
今日の禅語:「挨拶」

おなじみ、日本社会で欠かせない「挨拶」も 一挨一拶という禅の言葉からきてます!もともと挨には「心をひらく、ちかづく」拶には「相手にせまる、よりそう」という意味。でも一番おかしかったのが三省堂「大辞林」から・・・

あいさつ 【挨拶】(名)スル

(1)人と人とが出会ったときや、別れるときに交わす儀礼的な動作や言葉。
(2)公の席や舞台などで、大勢の人に向かって祝いやお礼などの気持ちを述べる言葉。 
(3)受け答え。応対。返答。 
「あのようにけんもほろろでは―のしようもない」
(4)儀礼的な通知。 
「―状」
(5)(「御挨拶」の形で)あきれた言いざま。













ここまではいいのです、最後のひとつにがツボ!!














(6)「仕返し」をいう不良仲間の隠語。 
「あとで―に行くからな」




挨拶にもいろいろあります。

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今日の禅語:「面授」

師匠から弟子へ、書物や経典ではなく人から人へ以心伝心で脈々と受け継がれてきたのが禅です。面と面がむかいあって初めて授けられるものです。教えの伝達ではなく、人から人へ、ぬくもりの伝達。

僕にとってパソコンの前を離れてズッシリ坐禅をするのは、いままで眺めて楽しんでいた楽譜を演奏するようなものかもしれません。奏でることに意味がある。

人と人が会えることの楽しさよ。

星。

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今日の禅語:「他是不吾」

他人は自分ではない。

わかっていても永平寺を降りて都会で暮らしイライラしてしまう時はよくあります。そんな時は大抵自分の価値観を人にも求めています。
今自分にできることを一歩一歩やっていくしかない、そう思っているとイライラしている原因は他人ではなく自分であるという感覚にもなってきます。
そうなると

他人は自分である。

とも思えてくる。
禅には「自己「と「他己」という言葉があります。
西洋でも「吾思う故に吾あり」という言葉があります。
光は見方に寄っては「粒」にも「波」にもなるようです。

ふしぎふしぎ。


星。

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今日の禅語:「三黙道場」

禅寺には三黙道場と呼ばれる三つのとても重要な道場があります。
食堂、東司、浴司の三つです。これは普通の家庭で言えばダイニングキッチン、トイレ、お風呂です。

ここでは喋ることは勿論のこと、大きな音をたてることも禁じられています。食べるとき、食器を上げ下げする音、トイレの音、お風呂で水を使う音、そういった音を極力出さないようにすることで気づくことがあります。
知らず知らずのうちに所作がとても丁寧になり、お米一粒、箸一膳、トイレの紙や、お風呂のお湯一滴まで大切に大切に扱うようになるのです。

食堂は勿論のこと、トイレやお風呂でここまで繊細にものを大切にする心は、世界中でも日本が群をぬいているのではないでしょうか。
おしゃべりしたり、大きな音をたてて感謝の気持ちも抱かずに振る舞ってしまいがちな「娑婆の三黙道場」で禅の所作を実践することは、日本人として誇れる立ち居振る舞いの基礎となると確信しています。

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今日の禅語:「豆腐のビル」

手のひらの上にのる豆腐は作れるけれどもビルの大きさの豆腐は崩れてしまってつくれません。

身体の大きさや眼、耳、鼻の位置、骨格なんかも全て重力、地球と太陽の距離など様々な要因で決定されています。伝統の身体作法には代々工夫され伝えられてきた「そうであるべき理由」が凝縮されているのです。すぐにはわからなかったとしても。

坐禅は痛いものだと誤解されるけれども、慣れれば最も重力に逆らわない一番楽な姿勢なんです。動くという字は重さの力と書きます。重力を味方に付けた動きは無駄がなく美しい。永平寺では食事作法ひとつとっても重力を最大限利用しています。無駄がなく流れるように美しいのです。

道元禅師の中国から帰国後の第一声が「空手還郷、眼横鼻直」だったと永平広録に記されています。経典や仏像などは持ち帰らず手ぶらで帰ってきた、そして眼は横に鼻は縦についているといったわけです。

あたりまえのことです。

が、そこに禅の神髄があるといえるでしょう。

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マスターこうすけです。
8月になりましたね。

さてさて、マスター星覚は先週末から長野県にて山ごもりをしています。

そのため朝の坐禅クラス「暁天坐禅〜お寺の朝ごはん〜」は8/2(月)〜8/13(金)までお休み
となります。

マスターにて紹介いる「zen go!」もしばしお休みとなります。

暑い日が続きますが、よい夏をお過ごしくださいませ〜。


今日の禅語:「潜行密用は愚の如く魯の如し」
永平寺で毎朝唱えるお経の中の一節。
一番好きな禅語のひとつです。

本当に大切なことは人知れず行うことで、それは愚(おろかもの)や魯(でくのぼう)と想われてしまうようなことも多い。

このお経はこの後「只よく、相続するを主中の主と名づく」と結ばれます。
続けていくことが大切。

永平寺では一年ぐらいなんでこんなことをやっているのかと想うことがよくありました。
それこそいやいやながら「相続」していたのがある時、はっとその意味に気づかされることがありました。そうやって気づいたことは本当に身体に染み入ります。

例えば仏壇にご飯を備えること。朝二時半に山内の至る所にご飯をおいてまわっても、勿論誰も食べたりなんかしやしません。朝のお経が終わると今度はそれを回収しなくてはいけません。

でもある時、はっと気づきました。
何に気づいたかはちょっと想像してみてほしいんです。

「潜行密用は愚の如く魯の如し」
効率や利益が最優先される世の中でとても心強い言葉です。
今日から二週間お盆休みを頂きますが、その間何か一つ、どんな些細なことでもいいので意識して「相続」してみて下さい。
自分が一番好きなことを!

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合格祈願で有名なダルマさんこと達磨大師は、インド出身の禅僧である。
中国へ渡り、ひたすら壁に向かって坐禅修行を続けたといわれている。

当時の中国の皇帝はとても仏教への信仰が厚く、写経をしたり、僧侶を育成したり、寺院を建立したりしていた。

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帝日く、「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を度すること、勝げて数うべからず、何の功徳かある」
師日く、「並に無功徳」

「景徳伝灯録」第三巻より抜粋
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その武帝が「私のやってきたことの功徳はどれくらいのものだろうか」と聴いた際
達磨大師は「功徳などない」と言い放ったのだ。

考えてみれば現代の都市生活において、私たちは常に何かの「ために」生きている。
功徳を求めてやった行為はそれをもたらす為の「契約行為」だが無功徳の行為は無条件に広がる。

誰がやったのか知らないが、自分にとって気持ちいいことをしてもらった時はそれを無条件に他に広げていきたくなる。
無功徳の行為は、波紋となって世界中にひろがっていく。

常に何かの為に右往左往するのをやめ、目的から離れニュートラルな状態になってその瞬間を生きる。
これが禅の思想であり、その一つのあり方として坐禅があるのだ。

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今日の禅語:「開枕」
永平寺では寝ることを「開枕」といいます。
一日の終わりの休む行為を「枕を開く」と表現するこの国に住む先祖達の美的感覚に感嘆する言葉です。

食べることも、トイレも、お風呂に行くことも、そして寝ることさえも坐禅の一つなのです。

永平寺で朝陽と共に起きる生活を続けてはっきりとわかった早起きのこつがあります。
それは「早く寝れば、早く起きれる」ということなのです。
お陽さまが昇れば感謝の祈りを捧げ
お陽さまが沈めば身体と心を落ち着けて「開枕」する。

雲水が毎日生き生きとしていられるのもこんな当たり前のことを詩的に情緒をもって行っているからなのかもしれません。

詳細は(http://www.unsui.net)

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