社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#27 スキルの獲得

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《沖縄の打楽器、三板(さんばん)。カラリカラリと良い音がします。》

大村はまさんの作品に、
教えるということ』(筑摩書房)というものがあります。

1970年代に語られた講演記録です。
具体的な言葉を挙げて、教えるということの意味を提起した内容で、
平易な文章も手伝って、肩肘を張らずに読むことができました。

人は「教える」ということを職業にしていなくても、
社会に生きていると必ず、人に「教える」という場面に出合うはずです。

なので、
この作品から何らかのことを学べれば、
生きるうえできっと役に立つと思いました。

その中に、
生徒に「言わない方が良い言葉」の一例として
次のような言葉がありました。

「やってきた?」という言葉です。

これは、「覚えてきた?」「前回までのところはもう完璧ね。」
とかいった言葉にも置き換えられそうです。

こういった言葉は、教育の現場では日常的に使われそうな表現ですが、
筆者はこれを批判します。

つまり、この言葉は「教える者の怠慢」であると。
学習者の到達度を査定するためだけの権威的な存在として君臨することが、
教える者の仕事ではない、と言うのです。
なかなか刺激的です。

我が身を振り返って思います。

社交ダンスのレッスンを
「スキルを授ける者/授かる者」という構図だけでとらえてしまうと、
教師としてのぼくは
生徒さんの到達度をチェックする権威者であり、
オーディションの審査員であり、査察官であり、

生徒さんは
「こんなんでよろしいでしょうか?」と
常に上の者の顔色をうかがう従属民であり、
オーディション応募者であり、査定される者である

という目で、
学びの現場をとらえるようになってしまうと思います。

つまり、
「学び」というものは、スキルのパッケージを持った教師が、
一方向的にスキルを授けてくれるのではない、
ということだと思います。

「賢さ」というパラメータを上げたいと思った時に、
「賢さの種」を食べれば良い、というものではないということです。

少なくともそう考えない方が、
何かを学ぶうえで、そして、教えるうえで得なことが多いと思います。

教育学や認知心理学の分野では、
もはや常識のようになっているそうですが、
「学習」という行為は「参加」であるということです。
J.Lave,E.Wengerという人が有名です。)

今この瞬間に、
役に立つのか立たないのかよく分からない場面に参加して、
教師や周りの人を参照したり、
ああだこうだと試行錯誤したりする中で
スキルというものは育っていくという考え方です。

「高く跳べるジャンプ力」とか
「音楽に乗る能力」といったスキルを、
コンビニで買うように
瞬間的に獲得するようなことはできないということです。

であるとすれば、

教える者の役割というのは、
その「参加」をサポートするというものになっていきそうです。

ダンスの先生というのは、
ダンスを見せて教える、
という機能的な存在です。

しかし、
それを一方向的なものに考えると、
教える者は査察官になって生徒さんの感性を抑圧し、
教わる者は感じて考えることを
自ら封じてしまうことにつながりかねません。

平等を目指せとか権力関係をなくせとかを
言いたいのではありません。
教師と生徒は当然立場も違うし、
両者の関係を何もかもフラットに整地することは不可能だと思います。
ただ、そういった非対称的な関係によって、
学びが邪魔されるのを少しでも緩和したいと思っています。

教える者の権威に悦に入って小さな支配欲を追求したくもないし、
教わる立場だからといって、何でも「はい!はい!」といって
教師を絶対視したくないとも思います。

社交ダンスは身体を使うものなので、
自分が伝えたい感覚を本人に感じてもらうしかありません。

動きとして再現して見せたとしても、
本人が感じないと、
やはりそれはスキルを獲得したとは言えません。
そのために、「言葉」を使うしかないと思っています。

これからも、
「言葉」というツールを使って、身体の感覚、教えるということ、
学ぶということについて考えていきたいと思います。

2010/08/26

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