社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#26 あなたとわたし

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《札幌モエレ沼公園。青空に延びる階段にいろいろなものを重ねます。》

みなさん、こんにちは。

社交ダンスは、2人で踊ることが前提となっています。
これが、他のダンスと決定的に違う点です。
2人の人間の共同作業。
これが社交ダンスの基本形態です。

さて。

2人で踊っていると気付くことですが、

どっちが仕掛けているのか分からなくなる。
どっちがついていっているのか分からなくなる。

ボールを投げているのが、自分なのか相手なのか、
よく分からなくなるのです。

どちらが今この瞬間の動きを駆動しているのかが
よく分からなくなるというか、
そんな「よく分からない」瞬間が何度もあります。

これは、
一体感と呼ばれることが多く、
何とも形容しがたい心地良さに包まれる瞬間でもあります。

この感覚は何なんでしょうか?
どうとらえて良いんでしょうか?
一体になるというか、融け合うというか。

ぼくは、
この「よく分からなさ」を何とか言葉にしたいと思っています。

この感覚に対するよくありがちな認識ですが、

「独立した1人と1人の人間が、お互いにやるべきことを共有し、
協力して一つの踊りを創りあげる。」

というものがあります。

これはこれで、ふ〜ん、という感じなんですが、
どうもあの感覚を説明するには物足りない。

     「一方が、Aという力を出して、
     相手はそれを入力してBという力を出して・・・」

といったようなモデルでは説明できないと思っています。

大げさな言い方ですが、
こういう機械的なモデルではなく、
2人の人間の間に新たな人格ができて、
それが2人の人間を一つの踊りへと引っ張っていく、

ととらえるのがより近いのかなと思います。

内田樹さんは、

禅の「住地煩悩(じゅうちぼんのう)」という言葉を引いて、
同じ場に臨む者同士の関わり方を次のように記述しています。


  「楽器奏者で交響楽を演奏しているとします。そのとき、
  他の楽器の音を聴いてからそれに応じていれば、必ず遅れる。
  聴覚情報の入力があってから反応したのでは、
  どれほどすばやく運動を出力してもハーモニーは生成しません。
  では、実際に演奏者たちはどうやっているのかと言いますと、
  同時に演奏しているのです。自身の身体的な限界を超えて、
  自分からはみ出して、他の楽器奏者と融合して、一体化している。
  オーケストラの全員で構成される「多細胞生物」があり、
  それが演奏をしている。・・・(中略)・・・そして、
  メンバー全員を含み込んだ共身体が演奏の主体である。」

           (『日本辺境論』新潮新書 2009年)

社交ダンスやオーケストラに限らず、
人と関わる場においては、その場にいる人達の「間」に、
新しい人格というか空間というか秩序というか、
そういった新しいものが立ち上がる、と言えるかもしれません。

あなたとわたし。

2人の人間は、確かに違う存在なんだけど、
完全に断絶しているわけでもない。

似たようなことを以前も書きましたが(#9『二人で一人)、
2人の間に新たな生命体が誕生して、
元いた2人を引っ張っていく。

言葉を交わさなくても同じ場を共有していれば、
いや、同じ場にいなくても、意識しないところで、
2人のコラボは始まっているのかもしれません。

そう考えると、
人間関係に対する考え方も変わってきそうです。

お互いが関わり合って、
その間に「いいもの」が生まれてくれば良いですね。

今回はこの辺でzzz

2010/07/05

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