社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#24 続"心配"にひそむ圧力

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《札幌が誇るパフェのお店。甘い響きとは対照的な無骨な外観です。》

みなさん、こんにちは。

前回は、「心配する」という行為にひそむ圧力について考えてみました。
今回は付け足しです。

同じ言葉をかけられても、
人によって違う響きに聞こえるのはどうしてなんでしょうか。

「大丈夫か?」と声をかけられても、
人によってはありがたくも、うっとうしくも聞こえてしまう。
癒されると感じる場合もあれば、圧力に感じる場合もある。

その理由のひとつに、「距離感」があると思います。
自分と相手との距離感。
ありきたりな表現ですが、これを理解していることが、
人間関係ではとても大切なことだと思います。

人は外から圧力をかけられることで、
潜在する能力を発揮するときもある。
そういう場合はたくさんある。

逆境に対して、
よし!この苦境を乗り越えて、必ず良いパフォーマンスをするぞ!とか、

厳しいことを指摘されて、
これぐらいのことを乗り越えられなければ、良い成績はとれないぞ!とか。 

そんな状況は日常茶飯のことです。
外からの圧力を内面化して、それを次なる行動のエネルギーに変える。
そんなことは当たり前だし、メカニズムが分かりきっています。
だけど、世の中にあるのはそればっかりではない。

それよりも、もっと微妙な部分。
言葉を発する人との距離感によって、
それをエネルギーに変えられない場合。
ぼくは、そういう部分についてとても興味があります。

声をかける方は、心から心配して気遣っているつもりなのに、
受け取る方は必ずしもそうとらえない場合。
むしろ逆に、問いつめられているような気持ちを呼び起こしてしまうような場合。

生きているとそういう感覚に必ず出合います。
では、これに対してどう考えれば良いのでしょうか。

まず、手始めに。

相手との距離感を知ること。
これは言っても大丈夫かな、と。

そして、
自分の発する言葉が、
相手に対して何かの圧力の代弁になってしまっていないか、
について自覚するということ。

これが大切だと思います。
ぼくはこれまでの人生の中で、
「心配している」という、一見、何の他意もなさそうに見える言葉を発することによって、相手に何かの圧力をかけていたかもしれません。
自分の知らないところで。

だから、
自分が何かの圧力の代弁者になっていないか、
ということを自覚する必要があると思っています。

だから、
言葉遣いには気をつけたいと思っています。

「大丈夫?」という言葉も時には圧力になる。
「心配してる。」という言葉も時には圧力になる。
「がんばれ。」という言葉も。

 一番無難なのは、「ゆっくりしい。」でしょうか。
病気になったことを責められている感じもしないし、
急いで治せと言われている感じもしないし、
かわいそうにと必要以上に憐れまれている感じもしないかな。

 良くないと思うのは、距離感を無視して発せられる、
「病院行ったのか?」
「薬飲んだのか?」
「ちゃんと食べてんのか?」といった、
自分の健康管理の甘さを糾弾するような物言い。 

だから、ぼくは、人に対して、
「〇〇してたの?」とか「△△したの?」といった、
尋問形式で「心配した」ふりをしたくないと思っています。 

それは、
自分がその人を心配してあげたという自己満足を得るため、
という部分が大きいと思います。

本当にその人のことを心配するなら、
繊細に言葉を選ぶべきだと思っています。
時には何も言わないこともありだと思います。 

「〇〇しなさい!」「△△すべきだったのに!」という口調で、
心配してあげたということにしたくはない。
それは、きっと逆効果。さらに追い詰めることになるだけ。

そう思います。

少なくとも、ぼくは、
「あなたを思えばこそ」という態度で、
ぎゃーぎゃーと強弁をふるわれたら、
話を聞く気が失せてしまいます。

社会が、働き方が、そんなゆっくりした態度を許さない、
といって諦めたくないと思います。
そういう態度が許されるような生き方を、
既存のルールとうまく折り合いをつけながらも、その一方で、
したたかに具体的に模索していきたいと思っています。

今回はこの辺でzzz

2010/05/28

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