昼の提唱で、元徳さんの弟、尚徳さんのボールペンを借りて筆をとった。
話を聞いているつもりをして書こう。難しいかもしれんが。
今日も「〇〇」の話だ。
あの人は、失礼ながら、本当につまらない。革命的だ。
聞いている人のことを全く考えていないんじゃないか。
で、一時止静での出来事。
上山以来初めて結跏(けっか)をくずした。
二回目の摂心六日目で足を崩せた意味はちょっとでかい。
合掌低頭してからゴソゴソ足を崩すんだけど、合掌低頭する前に一番考えたのは、足がしびれたとかじゃなくて、全結跏がダメになっているということと、後ろに座っている寛之さんと、いっしょにフル炷やってる斜め後ろの真実に「あっ星覚が足を崩した」と思われるかどうかの心配だった。
寛之さんタイミング良く寝てくれないかなぁとか(笑)。(正直そんなに痛くないんだ。前回は鍛えられたのか、今回は坐った後すぐに立てるし、自寮に帰る際も痛くない)
絶対に結跏をくずさないってのは、上山した時から決めてて、今までもずっとがんばって来た。
だけどこれだけは絶対やんないようにしようと思ったのは、自分からは「オレ絶対結跏してるんだ」とは言わないことだ。聞かれたら言うけど。
なんの為に結跏をやっているのかが重要だった。
でも今日気づいたことは、結局それが、見栄や虚栄心だったってこと。いざ崩すとき考えるのは、痛みのことではなく
「人からどう思われるかだった」
自分から全ての坐で結跏することは誰にも言わなかったけど、それを支えていたのは「九割方人にどう見られるか」だってことだ。
これでは坐禅がぐらついてもしょうがない。
土台の九割を人に頼ってる坐禅から今日は親指一つ抜け出せた意味は大きい。
坐禅はガマン大会ではないんだ。
1時間結跏が組めたからって何になるんだ。
自分の坐禅だったのに、こだわりまくっていたなぁ。
あっ、提唱おわちゃった。
当番所に戻った。
次は3時10分だ。1時からの終わって絶対いつも行く東司に行かずに単に坐って体を感じてみた。坐ったまま体を右に左にギュインてねじってみたら、天井が見えた。
すごい広い天井が。見えた。
広くて高い、このキョリ感は初めてだ。
いままでこんなにも広くて高いところで坐ってたんだよなぁ。
俺たぶん、きょうがなかったら俺は「永平寺ですべて結跏で通した」なんてバカなことを言ってるよタブン(笑)
まだまだミエッパリ、虚栄心のカタマリだけど、少しづつ本物に近づけたらいいなあ。
あと一日ちょっと。すごい坐りに行くのが楽しくなってきたのさ。
あとがき
上山した時には一炷坐った後は泣く程痛かった脚も、この頃には摂心をのりきれるくらいまで組めるようになってきた。
初めて結跏趺坐を崩したこの日、なにか広々とした気持ちになったのだ。
歴代の雲水達の坐禅を包み込んできた本山の僧堂の天井が、なにかいつもと違った色に見えたのをよく覚えている。
堂行寮の時に廻廊伝達で「僧堂には天井がある」と言って全山の話題になったことがあった。特に意図があっていったわけではなく、浮かんで来た言葉が抑えられなくなっただけなのだが。
こういった体験が源泉にあったのかもしれないな、と、今東京で思う。
コメントする