社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#8 踊らないダンサー

CIMG2542.JPG≪舞い落ちて散らばるもみじ。

            札幌にも台風が来ました。かすった程度ですが。

                     グレイの路面を背景に、もみじの色が映えています。≫

 

ダンサーなのに、踊らない。

踊らないのに、ダンサー。


何なんでしょう。

これって。


ダンサーを名のる資格なし!

ただの怠慢だ!


そんな声が聞こえてきそうです。


そうですよね。


ダンサー = 踊る人


ですから。

 

踊らないのに、ダンサーを名のってはいけません。

そんなのあたり前。


では。


なぜ、こんなことを言ったかというと。


ダンサーにとって、「踊る」ということは、一体どういうことか?


そういうことを、考えるきっかけになると思ったからです。


「"踊る"って、どういうことなの?何をしてれば、踊ったことになるの?」


そんな、子どものような問いかけに対して、

大人の巧みな言葉でごまかさずに、

正面から向かい合いたい。

答えが出なくても、ああかな~こうかな~と、引っかかり続けたい。


そんな気持ちがあったからです。


そして。


みなさんにとっての個々の活動が、

一体どういう実相の営みなのかを考えるきっかけになればと思ったからです。


 ダンサーにとって、「踊る」とはどういうことなのか?

 先生にとって、「教える」とはどういうことなのか?

 フォトグラファーにとって、「撮る」とはどういうことなのか?

 デザイナーにとって、「デザインする」とはどういうことなのか?

 俳優にとって、「演じる」とはどういうことなのか?

 料理人にとって・・・

 農家にとって・・・

 牧師にとって・・・


無数に考えられそうですね。


星覚は、「掃除の力」の中で、自分が雲水であるということを見つめ直しています。

日常の中で、「禅的な生活って、こういうことだよな?」と、問い直しています。

ゲロを見るたびに、「雲水だったら、この状況にどう対応すべきなんだろうか?」と、自問しています。


星覚の心中をそんなふうに想像します。



その属性の「核」と思われている行為を考えるために、

あえて、「〇〇しない」状況を考えてみる。


そんなアプローチです。


まわりくどかったですね・・・


では。


ダンサーにとって、「踊る」という行為はどういうことなんでしょうか。


いくつかのパターンがありそうです。


競技会でのタイトルを意識した場合は、

「踊るということは、誰よりも賞賛されること」。


営業を意識した場合は、

「踊るということは、収入を得ること」。


人生の喜びを意識した場合は、

「踊るということは、生徒さんに喜んでもらうこと」。


などなど。


いろんな表現が可能です。


「おれにとって、踊るっていうことは、こういうことだ!」


と、かっこよく断定したとしても、

それは、数ある可能性の中の一面に過ぎないようです。


同じ「踊る」という言葉を使っていても、

その内容は、時と場合によって違ってくる。


だから。

 

自分で考えるしかない。

 

自分にとっての「踊る」イメージを、立体的にいくつも見つけてみる。

そして、その中から強調したい側面を選択する。

 

そんな感じかな。

 

僕たちは、伝える相手、その時の状況によって、

いろんな顔を使い分けて、

自分の取り組みを周囲に伝えている。


そんな感じじゃないでしょうか。



みなさんにとって、

「〇〇すること」って、

どういうことなんでしょうか?


日々取り組んでいることには、

どういう意味があるんでしょうか?


自分の取り組んでいることについて、目を向けてみる。


そしたら。


新たな発見があるかもしれません。

自分がやっていたことは、こういうことだったんだ!

と、膝を打つかもしれません。


こう考えてみると、おもしろいかもしれませんね。


意外なところに、意外な共通点を見つけられるかもしれません。

そして、そういった発見が、自分の活動や考え方を分厚く、

深くしてくれるかもしれません。


「踊らないダンサー・祈らない牧師・種をまかない農夫」。


例えば、そんなタイトルで、何かを書いてみようかな~。


今回はこの辺でzzz

 

2009/10/10

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