社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#11 "理由"とのつきあい方

 

CIMG2617.JPGみなさん、こんにちは。


札幌は、だんだんと冬に近付いています。


街路に咲いた、赤色黄色の紅葉の花が、

日に日にその色を深めていっています。


今日は雨降りだったので、その花も散って、

明日には、やせ細った木々が、

新たな札幌の風景を作るのでしょう。



前回は、


    人に何かを伝える時には、

    事前にその理由を伝えた方が良さそうだ


ということを書きました。



でも。


    それに違和感を感じる部分もある


と言って、


ひとまずの結びにしていたと思います。



    なぜ、違和感を感じるのでしょうか?



    このために、今、これをやってるんですよ。



そんなことが身の回りに多ければ多いほど、

良さそうにも見えますが・・・


ダンスを教える時も、教わる時も、


    「この動きは、〇〇のために」


という理由を提示されていた方が、

お互いの意思の疎通もスムーズになるだろうし、

習得も早いように思えます。



でも。


そのことに違和感を感じてしまうのです。

(素直じゃないですね・・・)



何となくですが、

思い当たることがあります。

 

それは。


   

    〇〇をすれば、□□になる。


という語りで日常のすべてが埋め尽くされることに対する抵抗、


であるような気がしています。


言い換えると、


論理的な思考に、生活のすみずみを侵食されやしないかという、

無意識の警戒心の表れなんじゃないかと。


そんな気がしています。



みなさんは、どうでしょうか?


日常の行動いちいちに、

「〇〇のため」という理由がなければならないとしたら。


肩がこって、ビールも飲めません。

落ち着かなくて、ぼんやりと空を眺めることもできません。

何か悪いことをしているような気がして、温泉にも入れません。


そうじゃないでしょうか?


しようとしていること、

おもしろいと思ったこと、

おもしろくないと思ったこと、


そのすべてに、

理路整然とした理由をくっつけるのは、

良いことなんでしょうか?


というより、不可能だと思います。


次に踏み出す1歩をどこにどうやって出すか、

それについて、いちいち理由を言葉で示せる人はいないと思います。



    何だか自分でも良く分からないけど、

    これがしたいんだ。


    なぜかはうまく言えないんだけど、

    これが好きなんだ。



原初の感情というのは、

そういうものだと思っています。



それに導かれて、とりあえず始めてみる。

そして、始めるうちに、後から言葉がやってくる。


後から。


後から来た言葉が、

自分がそれを始めるに至った経緯に、

「それっぽい」理由や意義をくっつけていく。



だから。



理由は、後付けなんだと思っています。

それで良いと思っています。



語られる理由というのは、

だいぶ後になってから紡ぎだされるものだと思っています。



なので。


最初のうちから、理路整然と語りだされる理由というものには、

ぼくは警戒心を持つようにしています。



なぜなら。



理由は、本人にとって、最初は、分からないと思っているから。


人間は、何かをしたいと思った時、

論理的にその理由を語ることは出来ないと思っているから。


語れるとしたら、それはきっと、


相当な時間をかけて自己対話を繰り返した後か、

そうでなければ、創作されたフィクションだと思っているから。



ぼくは、何かをしたいと話してくれる友人が、

理路整然とその理由を語る場面に出合ったことがありません。


みんな、

どもりながら、つまりながら、言葉を探しながら、

ぼんやりと、あいまいに、

しかし、少しずつ自分の感情を言葉にしようとしながら、

探り探り説明してくれます。



ぼくは、そういう態度が好きだし、

ぼく自身もそうでありたいと思っています。



感覚とともに、身体の中に湧き上がった情動というものは、


もやもやとしていて、

どろどろとしていて、


とても、ズバッ!と説明できるようなものではないと思っています。


(でも、社会に生きていると、

あたかも「理由が先にある」ような態度が望まれますね。

私は、こうこうこういう理由で、こういう計画でこれをやろうとしています。

といったプレゼンテーション。)

 


     うまく言えないけど、

     これをしたいという気持ちがわいてくるんだ。


     うまく言えないけど、

     これをしなきゃいけない気がするんだ。



そんなものだと思っています。


人間の行動のメカニズムは、

そんな感じなんだと思っています。


だから。


何かを始めたいと思った時。

何かに近付きたいと思った時。


きれいな理由を探すことに、

労力を費やすんじゃなくて、


ひょいっ、と始めてみる。

すいっ、と境界線を越えてみる。

 

良いな、と思ったら踊れば良いんです。

食べたい、と思ったら食べれば良いんです。

知りたい、と思ったら調べれば良いんです。

そういう部分をなくさないようにしたいと思っています。



これって、けっこう禅的ですよね。


今日の雲水マスター、星覚の言葉にもありました。

ただただやるのみですね。

 

 

今回はこの辺でzzz

2009/10/28

コメント(2)

いつもどもりどもりになってしまう俺はなんかこの記事をみてすごく励まされました。
ありがとうございます。

明日もふんばろうってきになりました(笑)。

そして踊ろうと思ったら踊ればいいじゃない、
好きなら好き、それだけでいいじゃない、

というのは俺の一番苦手な部分、そうできない部分でもあります。
不安や怖れからすぐ論理的な裏付けをもとめてしまう。

雲水をやっているのはそんな自分の弱さ故かもしれません。

でも、ひとつ、雲水マスターじゃなくって、日替わりマスターです、
あくまでも今日のお店番(笑)。
なんか雲水を究めてる人みたいじゃない?
40年後くらいにはそう呼ばれて見たい気もするけどw

コメントありがとうございます♪

結果が分からないから、心にひらめいたことに対しても、
論理的な裏付けを求めてしまうんでしょうね。

そういった裏付けは、本当は、裏付けでも何でもなくて、
ただ、自分や周りの人を安心させるための
方便に過ぎないのかもしれないですね。

何かを思い立って始めることって、
実はとてつもなく怖くて勇気がいることだと思います。

自分の人生に前例のないことだから。
周りの人にも反対されることが多いし。

日々は、それとの闘いのような気もしてます。


雲水マスター…

ぜんぜん気付かなかったです…

でも、響きは良いね~。
本当に、雲水を究めている人みたいだ(笑)。

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