社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#15 待つという行為

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≪木の幹を見つめています。さっきからずっと。何か気になっているんでしょうか。≫

 

社交ダンスは、2人で組む踊りです。


なので。


相手の動き、相手の反応に対して繊細になることが求められます。


つないだ手を通じて、

自分の体重移動が相手に伝わっているのかどうか。


対面した相手の目に、

自分が次にしようとしている動きが伝わっているのかどうか。



そんなことに敏感になる必要があります。


お地蔵さんのように、ただ受身で静止している人。


そこはリアクションをする場面のはずなのに、

「早く動きなさいよ!」と、

あおるようにプレッシャーを与えてくる人。


いろいろいます。


社交ダンスは、

言葉の通用しない領域で応答しあう営みとも呼べそうです。



こういった営みに、日々接していると、

いろいろと気付くことがあります。


その1つが、

「待つ」ということです。


#12「感じて対応する」でも書きましたが、


社交ダンスは、

「仕掛ける人」と「仕掛けられる人」の2者で構成される踊りです。


ただ、その両者は、


男性=「仕掛ける人」

女性=「仕掛けられる人」


という固定されたものではなくて、

ステップごとに、曲ごとに、振り付けごとに、

「仕掛ける」側と「仕掛けられる側」が入れ替わるものです。



状況ごとに、男性と女性の役割が変化する。

状況によって、待つ側と待たせる側が入れ替わる。


そういう言い方もできそうです。



      自分はこういうタイミングで仕掛けたいのに、反応してくれない。

      相手はどういう強さとスピードで仕掛けたいのかが、全然分からない。



社交ダンスにおけるトラブルの大部分は、

こういう「待つ」に関わることのようです。



「待つ」ということは、

とても大変な行為だと思います。


どういう結果になるかが見えない状況に、

あえて身を置かないといけないので。



最近、出合った本に


鷲田清一さんの、

「待つ」ということ』(角川選書)があります。


そこに、とても興味深い一節がありました。



        一言口にするたびに、こんな言葉ではきっと伝わるまい、

        こんな軽い言葉ではとうてい言い尽くせない・・・というふうに、

        言葉の感触を一つ一つ確かめながらでなければ口にできない。

        断片的にでなければ、どもりながらでなければ、語りだせない

                 ・・・(中略)・・・

        が、聴く人は、とぎれとぎれの語りの、その遅さに耐え切れない。

        耐え切れずに、つい言葉を挟む。

        「あなたが言いたいのは、あるいは言いよどんでいるのは、

         こういうことじゃないの?」




ぼくは、「待つ」ということが苦手でした。


自分は、周りの人に「待ってもらう」ことで

これまで成り立ってきたにもかかわらず、


相手に対しては、

自分の問いかけに早く応答してほしいという気持ちが強くありました。



インスタントな応答。

クイックなレスポンス。


以前は、そういうものが、

人間関係における「善なるもの」と思い込み、

それを周囲に求めていたように思います。



今もそういう所があるかもしれませんが、

自分にはこういう面がある、と自覚できたことで、

周りの人に対して、応答を急かすような部分は以前よりは減ったかな、

と思っています。

(あくまで自己評価ですが・・・)



        あなたの仕掛けたいステップはこれなんでしょ?

        あなたの動いてほしいタイミングはこれなんでしょ?

        あなたが言いたいのはこういうことなんでしょ?



というふうに、



相手の決められなさ、言い淀みを

じれったく思って、しびれを切らして、言葉をはさみ、


その人が自分の中で推敲して、

何かを発しようとする試みを横取りしたくはないと思っています。



例えば、誰かと話をしている時。


相手が自分に何かを伝えたいんだけど、

うまく説明できないように見える時、



        あ~、〇〇のことでしょ?

        知ってる知ってる。それって△△だよね。



と割って入って、

相手が何かの言葉を産もうとしている機会を

奪いたくはないと思っています。



じれったさやもどかしさに負けず、

その人がうんうん言いながら、

何かを産み出そうとしている姿を、

粘り強く見守ることが大切だと思っています。



もしも、


       知ってる知ってる。それって△△のことでしょ?



と言ったことで、相手が、



       そうそう!私が言いたかったのはそういうことなの!



と喜んでくれたとしても、


それは、その人が言いたかったことではないと思っています。


それは、聞き手である自分が解釈して産み出した言葉であって、

その人が自分の身体を通して紡ぎだしたものではない以上、

借り物の域を出ないと思っています。



じれったくても良い。

もどかしくても良い。

時間がかかっても良い。

きれいな言葉でなくても良い。


しっくり来る言葉や表現を、自分で獲得する。


それが大切だと思っています。



そして、周りにいる人は、それらが産み出される現場で、



        早く産め産め!



と急かすのではなく、



        あなたが産み出したいのはこれでしょ?



と、まことしやかな「正解」をちらつかせるのでもなく、



ただただ、見守ってあげる。


そういう態度が大切なように思っています。


みなさんは、どうお思いでしょうか?


少なくとも、


ぼくは、

何かを産み出すときに、

話をさえぎられて、



       よしよし、分かった分かった。

       あなたの言いたいことはこれでしょ。



と言われることに、

とてつもなく違和感を感じてしまいます。



ちょっと長くなりました。


札幌は、師走を前に雪が降りました。

いよいよ本格的な冬入りでしょうか。



社交ダンスにおける「待つ」行為。

人間関係にも似てそうです。



今回はこの辺でzzz

 

2009/11/28

コメント(2)

Atsukiさま

初めまして、YomYOGAのaccoと申します。
いつかご挨拶をする機会をと思っていましたが、
早くお伝えしたいという気持ちが、このコメント欄でのご挨拶になってしまいました。

いつもブログ拝見しています。
ヨーガと通じることが多くて共感し、たくさん学ばしていただいています。

「仕掛ける人」と「仕掛けられる人」、
ヨーガの中ではこのことが同時に自分の中で起こっている感覚があります。

「待つこと」
ヨーガのクラスの中では、ただ気づきを促すこと。
そして本人が自分で気づくまで、答えはその人の中にあると信じて待つようにしています。

そうですよね。
「ただただ、見守ってあげる。」
してもらっていることを、わたしもしていきたいです。

短い中では書ききれませんでした・・・。
いつもの感謝をお伝えしたくてメールしました。

雲水喫茶でのご縁に感謝です。
acco

accoさま

はじめまして。
ご丁寧にありがとうございます。
僕のほうこそ、「YomYOGA」が始まった時にご挨拶を、
と思っていたのですが、のびのびになってしまいました。

お互いに、人間の「身体」と向き合う活動をしているので、
共通することはかなり多そうですよね。

ヨーガでは、
「仕掛ける」ことと「仕掛けられる」ことが、
自分の中で同時に起こっている感覚なんですね。

何がインプットで、何がアウトプットで、というように、
明確に線引きすることが難しそうですね。

同時に、連動して、関わり合って、絡み合って。 

そういう表現が、身体の中で起こることを形容するにふさわしいようにも思います。

コメント、本当にありがとうございます。
僕の方こそ、雲水喫茶でのご縁に感謝です。
今後ともよろしくお願いします♪

「YomYOGA」楽しみにしていますね。

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