社交ダンスインストラクター井上淳生の「A little star in our body」

#21 頭と身体

CIMG3514.JPGのサムネール画像

≪6年間住み親しんだ部屋の窓から。味わった悲喜こもごもを胸に新居へと移ります。≫

 

みなさん、こんにちは。

ここ2日ほど、札幌はまた冬に戻りました。

春に向けて顔を出した路面も白く覆われ。

手袋なしでは手指がキンキンと凍りつき。

 

日が落ちるに合わせて、もうもうと猛る風と雪。

夜寒の小路に出現した、滑らかな表面の雪砂砂漠。

まだ誰の足跡も見えない道なき道を、ざくざくと進んでいきます。

 

常に変化を与えてくれる自然の息吹を感じながら、

今日も踊りを踊ります。

 

さて。

社交ダンスを教えるという仕事をしていると、

いくつも気付くことがあります。

 

例えば。

         頭では分かるけど、身体がついていかない。

という表現。

こういう言い回しをよく聞きます。

 

新しいステップを知るとき。

新しい身体の使い方を求められたとき。

 

生徒さんにとって、

これまで経験したことのない身体の操作法に出合ったとき、 

そして自分の納得のいくように身体を操れなかったとき、

一般的に落ち着いていく地点のようです。

 

ぼく自身に照らしてみても、

知らないうちによく言っていることに気付きます。

 

              う~ん...うまく動けない...

              なぜなんだろうか... 

              先生の言っていることは分かるような気がするんだけどな~

 

こういう状況を指して、自分の置かれた状況が、

「頭では分かるけど、身体がついていかない」状況である

という認識を持つに至っていたように思います。

 

              まったく分からないわけではない。

              身体がうまく反応しないだけで、頭では分かっている。

              言っていることは分かる。

              脳が身体に指令を出すまでに時間がかかっているだけ。

              時間さえかければ、頭の理解と身体の理解が接近していくはず。

              

こんなふうに考えていたように思います。

これは、

うまく動けないことに対する自己弁護のようでもあり、

できなくても冷笑しないでほしいという周囲に対する保険のようでもあります。

 

ただ、ぼくはこういう表現を聞いて、

おもしろいな、と思いました。

 

それは、

              「頭と身体を分けて考える」ということ、

         そして、「頭で理解する方が身体で理解するよりも簡単だ」

 

ということを、

誰かに教わった記憶がないにもかかわらず、

さも当たり前のことのように考えているということです。

 

             なぜ、こういう考えを持つようになったのでしょうか。

これは、きっとぼく1人だけの感想ではないと思っています。

             なぜ、こう考えるんでしょうか。

             なぜ、「頭」と「身体」で分割して考え、    

             「頭」で理解する能力の、「身体」で理解する能力に対する有能性を

             何かに対応するときの前提にするんでしょうか。

 

とても不思議だと思います。

ぼくはこういうことを検証するすべを知らないので、

 自分なりの答えを持ち、

それをひとまずの回答ということにしたいと思います。

 

それは。

              こう考えると便利だから。

ひとまずそう思うことにしたいと思います。

 

自分の内部に「頭」と「身体」という2つの存在がある。

ちょっとメルヘンチックな表現をすると、

「いのうえ」という町の中に、頭さんと身体さんという2つの家族が住んでいる、

とでも言えるでしょうか。

 

これはとても便利な考え方だと思います。

リスクの分散というか。

 

「身体」がだめでも「頭」で補えば良い。

「頭」がだめでも「身体」でカバーすれば良い。

 

そういうふうに考えることが可能になるので。

さらに言えば、自分の中に2つの人格を認めるということになるので。

 

ただ、これは、

何かの反社会的な行為を犯した人が、

「あのときの自分はどうかしていた。本来の自分ではなかった。」と言って、

「あのときの自分」と「本来の自分」を分けて設定し、

自己弁護する構図にも似ているような気がします。

 

また、

「あの人は本当はあんな人じゃないんですよ。根はとても良い人なんですよ。」

と、その人を弁護する構図と同型のような気がします。

 

使われ方に良し悪しはありそうですが、

自分の中に何人もの住人を住まわせることで、

新しい経験にぶつかったときに、対応する引き出しが増えそうな気がします。

そんなふうに思います。

 

ちなみにぼくは、新しい動きを覚えるときに、

どうしても頭の中に言葉をめぐらして理解しようとしてしまいます。

ということは、覚えが遅いのです...

(自己弁護ですが...)        

 

なので、新しい動きを"ひょい"っと覚えてしまえる同業のダンサーを、

このうえなくまぶしく思っています。

 

武道の世界では常識のようですが、

「考えて動く」と、どうしても"遅れて"しまう。

ということは、

頭で言葉をめぐらしている自分は、その時点で、

「お前はもう死んでいる。」

ということになるんでしょう。

わなわな...

 

それは嫌なので、

「頭」と「身体」という2つの住人を同居させながらも、

流れ作業のように順番に作動させるのではなく、

同時に作動させるということを目指したいと思います。

 

「頭」と「身体」のように、自分の中に性格の異なるいくつかの住人が同居している、

と考えるのは、いろいろな面で役に立ちそうな気がしています。

今回はこの辺でzzz

2010/03/28

コメントする