雲水星覚の永平寺修行日記「僧想!」

05/02/21 いろんなことを妄想する

なんてオオバカもんだ!

主事さんと仏教を語る事について朝食(粥)の時に熱く話していた。
真実と三人で。熱くなりすぎて今日他出される部長さんをお見送りするのを忘れてしまった。

言葉じゃないっていう話をしていた。議論に夢中で現実にそっぽむいてたんじゃ本末転倒だ。俺はなんて馬鹿チンだ。

部長さんはいつも「いいですよ」とか「じぶんでやります」とかいうタイプなんだけど、だから甘えようと思ったら甘えてしまう。意識を高く持たないといけない。それにしても主事さんはなかなかセクシーな事を言う。馬鹿を認めて同じ立場に立って話すって言うのは、海外で布教してきた時に出来た考え方で能力なんだろうと思うけど、謙遜されるが、芯は通っている。

仏教ってのは「塩」みたいなものだって話になったんだ。イタリア・フランス・トルコ・日本料理などいい味が出るんだけど、どの料理にも必要。で料理自体には塩は見えない。塩と気付かないけど存在は感じる。

永平寺にいたことを誰にも言わないで生きる。逆に永平寺をとことん批判して生きる、とかいろいろ言っていたんだけど、そもそも他人を批判したり他人が悪いって事を考えた時点で、それは自分がそれより上にいるって思っていることになる。そうすると布教っていう難しい問題を、どうとらえたら良いかって視点が開けてくるわけだ。

真実が、新興宗教団体に熱心に勧誘に来られると腹が立つけど、自分たちの熱心な活動とどこが違っているか?ていうことになる。この問題提起にはなかなか適当な答えを見出しせない。

坐禅はほんとに良い、ってことを分かってほしいと思っても、それを伝えるとき一つやりかたが変わると大きな違いを生み出してしまう。

最近自分は、特に自分の考えややり方を他の人に分かってもらうために、こうした方が絶対良いとかにこだわっていたけれど「127億光年向こうの"銀河発見"(今朝の新聞を見て周運さんの話)なんてでっかい記事を見ていると、まず、自分の中にもそういう部分がある、たしかにこの人の言っていることももっともだ。と同じ物を見つけていく作業が重要な意味を持つんじゃないかと思う。批判した時点で批判の対象を踏み台にして上に登ろうっていう心を感じてしまう。

今日一番上山が山門に立ちました。中雀門を通って警盤に行くと足元からすくむような寒さが襲う。今この山門に何時間も立てるかと思うと、自分の中に響く答えは、「絶対むりむり!」

帰りに再び中雀門を通るとき、悲鳴のような声が響いていた。声をからして熱くなってんだろうなあ。やつは、今寒さを感じてないだろうなあとうらやましくもなる。今日は「国際武道大学の学生10人がくる。説明から諸堂案内までやれるかなあ、やるしかないさ。髪を伸ばしておけさを外すのは、わくわくする。これもとびきりおもしろい道だと再びかみしめた。 

2010/05/30

コメント(2)

はじめまして。
明後日、永平寺で参籠に参加させていただくものです。
「僧想」読ませていただきました。雲水の方の修行の空気や世界観が伝わってきてすごく面白かったです。

仏教は塩・・・!
本とかだと難しすぎてわからないんですが、星覚さんの「僧想」だと読みやすく体験が伴ってるので読んだあと、いろんなこと考えてしまいました。

また日記の更新を楽しみにしております。
ありがとうございました。

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